第4回石橋湛山研究学会

第4回石橋湛山研究学会開催報告 石橋湛山研究学会世話人 早稲田大学講師 上田美和

は じ め に

去る2016年12月17日、立正大学品川キャンパスにて、石橋湛山研究学会が開催された。例年通り、第1部の研究報告と第2部のシンポジウムによる2部構成で、当日は57名の参加者による活発な質疑応答が行われた。

本稿は、参加できなかった方々も含め、皆さまに学会当日の内容をお伝えするものである。なお、第2部のシンポジウム(パネリスト・藤原帰一氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、船橋洋一氏(日本再建イニシアティブ理事長)、司会・島田敏男氏(NHK解説副委員長))については、別冊ブックレットが作成されているので、そちらで詳細をご覧いただきたく、本稿では第1部の研究報告を中心に紹介する。

第1部研究報告は、登壇順に、戸田教敞氏(日蓮宗現代宗教研究所所員)、池尾愛子氏(早稲田大学商学学術院教授)、竹内桂氏(明治大学政治経済学部兼任講師)によって行われた。


一、戸田報告「石橋湛山と日蓮宗 日蓮主義と在家仏教の視点から」

戸田報告は、石橋湛山を日蓮教団史上、どのように位置づけるべきかという問題意識から、石橋と日蓮宗との関係性を明らかにし、両者の距離感を測ることを目的とするものである。近代仏教における特質として、戸田氏は「日蓮主義」と「在家仏教」の二点に着目し、石橋において双方の意識はどこにみられるか、当時の日蓮宗から受けた影響について考察した。石橋との比較項として、田中智学(1860〜1939年)を設定する。田中は元々日蓮宗の僧侶であったが、還俗して在家仏教教団「立正安国会(後に国柱会)」を創立、日蓮聖人の教えに直参するという「日蓮主義」を提唱し、日蓮教団の改革を目指した。  まず、田中智学の在家仏教論の要点は(一)当時の仏教界に対する批判とともに起こった、(二)末法という時代において僧侶はどうあるべきかを論じた、(三)現代僧侶の本質は在家の菩薩であり、形としての僧俗に大きな違いはない、というものであった。次に、田中の日蓮主義の要点は(一)宗門革命・祖道復古、(二)一切に亘る指導原理、(三)日蓮主義と国体宣明の一致、であった。  一方、石橋の日蓮主義と在家仏教的意識は、国家主義的日蓮主義批判ということができる。それは1905年の「望月日謙への手紙」(『石橋湛山全集』第16巻所収)や戦時中の発言にあらわれている。また、石橋は戦後、「宗祖に帰れ」「有髪の僧」という主張を行っているのである。

戸田報告は、重要視されながらもこれまで手薄であった、近代宗教史からの石橋湛山研究であり、魅力的な論点であった。


二、池尾報告「英文雑誌『オリエンタル・エコノミスト』の経済記事について 1930〜年代を中心に」

1934年5月に月刊誌として、東洋経済新報社が刊行したThe Oriental Economistは、1946年1月に週刊に、1952年9月から再び月刊となった。諸外国との貿易摩擦の最中、1985年11・12月合併号を最後とし、1986年1月号からはTokyo Business Todayとなった。

1931年12月の金輸出再禁止により金本位制度から離脱した後、日本円の相場は市場の圧力のため大きく下がり、日本の貿易赤字は減少した。ソーシャル・ダンピングであるとのイギリスからの厳しい批判に対して、日本経済の正確なデータを示して反論するために、The Oriental Economistは創刊されたのである。創刊号の目次は、月刊時評「Review of the Month」、社説・論説「Leading Articles」、証券、商品市場、その他の統計データの順で構成された。創刊から1941年の経済データ掲載頁数は、全体の3〜6割であるが、1941年3月以降は、政府がデータの一部を公表しなくなった。  石橋は巻頭の月刊時評のほか、社説を冷静なトーンで執筆した。また石橋は、1942年に出版された、Elizabeth Boody Schumpeter(シュンペーター夫人)著『日満産業構造論』への序文を寄せた。The Oriental Economist1941年2月号には長文の書評を寄せ、外国語で書かれた日本経済論としては秀逸であると絶賛した。なお、同誌にはヒュー・バイアスら、海外からの寄稿も掲載されていた。

戦後、The Oriental Economist1945年9月号に無署名で「インフレは起こらない」と題し「デフレが心配である」と断じる社説が掲載された。主幹の石橋湛山の執筆と推測できる。この社説によって、石橋の政界への進出意欲が表明されたといってよい。石橋は追放解除後、ドッジ・ラインが引き起こしたデフレを批判した。

池尾報告は、経済学の立場からの英文誌 The Oriental Economist研究であり、分析対象の時代が戦前・戦時・戦後経済史にまたがるという意味でも、重要な知見であった。


三、竹内報告「三木武夫と石橋湛山 石橋内閣期を中心に」

竹内氏は三木武夫研究の観点から石橋湛山との関係を明らかにし、その意義を考察した。戦前の三木は石橋と面識はなく、宮崎吉政の推測によれば、両者の最初の出会いは、1946年9月24日、戦時補償特別措置法案の説明時ではないかという。また、東京大学教授脇村義太郎が1956年の自民党総裁選において、石橋と三木とを「橋渡し」した役割、さらに、三木睦子夫人の実家である森家と石橋が、従来から家族ぐるみの親しい関係にあった影響も指摘できる。三木夫人へのインタビュー映像も披露された。

自民党総裁選での石橋擁立について、石田博英は『石橋政権七十一日』で、1956年3月、三木が石橋擁立を申し出た、と回想する。石橋への出馬の打診は、同年8月8日の石橋・三木・鶴見祐輔会談であったことが「鶴見祐輔日記」から判明する。9月20日、三木と松村謙三は石橋に総裁選出馬を要請した。三木が総裁選において果たした役割は、(一)旧改進党系の取りまとめ(大麻唯男派を除く)、(二)石橋陣営の参謀として、石井光次郎との2位・3位連合の形成、(三)資金面における貢献、であった。

石橋内閣の組閣人事は難航し、三木は幹事長に就任するが、岸信介の外務大臣就任について昭和天皇の憂慮が伝えられている(三木の秘書、岩野美代治による回想)。石橋の病気による内閣総辞職に際して、三木はNHKの平澤和重の助言を経て「石橋書簡」を完成させた。三木の総裁選出馬においては、石橋は自身の後継者として三木を支持したのである。

竹内報告で提示された石橋・三木の共通点と相違点、また、選挙研究の重要性は、今後の石橋研究のみならず、政治史研究全般にとっても、有意義な指摘であった。


お わ り に

第1部の報告後、フロアとの積極的な質疑応答が交わされ、議論を深めることができた。戸田氏の報告からは宗教家としての顔、池尾氏からはエコノミストとしての顔、竹内氏からは政治家としての顔、というように、戦前・戦時・戦後という長いスパンでの、石橋湛山の多彩な側面が明らかにされた。各専門の立場からの充実した研究報告をいただき、第1部の司会を担当した筆者も、大いに学んだ次第である。

第2部シンポジウムは、石橋湛山のリベラリズム・リアリズムの現代的意義、石橋からジャーナリズムは何を学ぶか、世論との向き合い方はどうあるべきか、という切り口から展開された。藤原・船橋両氏の議論は、21世紀の現在、イギリスのEU離脱やトランプ米大統領当選後の混迷をきたす世界において、ポピュリズムとナショナリズムに対峙するための教育・メディア・ジャーナリズムの重要性や、デフレ社会への処方箋にまで及び、聴衆に深い感銘を与えた。

学会終了後、開催された懇親会(参加者数42名)でも、引き続き議論が行われた。関係各位の皆さまのご尽力によって今年度学会も盛会に終わり、世話人として深く感謝申し上げたい。当日、増田弘学会会長からお知らせがあったように、次回の第1部研究報告者に関しては、会員の皆さまからの積極的な挙手をぜひ、お願いしたい(現時点で、世話人会としては「外国人研究者からみた石橋湛山」をテーマに考えている。連絡先は、石橋湛山研究学会tanzan@crocus.ocn.ne.jpまで)。次回第5回学会は、2017年12月16日(土)に開催予定である。

研究学会会員は随時募集中

現在の会員数は、総計約160名(リサーチ会員60名、オウディット会員100名)です。入会をご希望の方は、”ご案内PDF”、”会則”をお読みいただいた上で、所定用紙をメール添付またはファックスで石橋湛山記念財団までお送り下さい。なお、会則にありますが、会費は無料です。


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