第32回受賞:牧野邦昭氏

牧野邦昭氏
『戦時下の経済学者』
(中央公論新社、2010年6月刊)

牧野邦昭 (まきのくにあき) 氏

1977(昭和52)年生まれ。東京大学経済学部卒業後、京都大学大学院経済学研究科博士後期課程を修了(博士(経済学))。 京都大学研究支援推進員をへて、現在、摂南大学経済学部講師。専攻は近代日本経済思想史。 受賞作が初の著書で、ほか論文「『貧乏物語』再考――「ナショナリスト・河上肇」からの釈放」(『思想』第1013号、2008年)などがあります。 新進気鋭34歳、「石橋湛山賞」受賞者としては、第2回叶芳和氏(現選考委員)の38歳を更新する最も若い授賞者となりました。

受賞の挨拶

今後は、日本経済思想史上での石橋湛山を追究したい―― 牧野邦昭

経済理論・政策・現実――歴史に学ばない危惧

このたびは「石橋湛山賞」をいただき、まことにありがとうございます。関係者の皆さまにお礼申し上げます。過去の受賞者は大御所の方々ばかりですので、私のような若輩がこの名誉ある賞をいただいてよいのかとも思いますが、今後とも賞の名前に恥じない研究を続けていこうと、心に決めております。

日本経済思想史の研究を最初に始めた頃に、松尾尊兊先生が編集された岩波文庫の『石橋湛山評論集』を読んで、戦前の日本にこれだけ合理的かつ自分の考えを堂々と信念に従って主張する人がいたのだと、大変驚きました。とはいえ私はひねくれ者で、石橋湛山についての研究はすでに沢山ありますから、それならば、もう少し知られていない人や出来事について調べようと思い進んできました。ただそういうアプローチをしていくと、今度は逆に重要な人物が浮かび上がってきます。私の本でいうと河上肇、高田保馬、高橋亀吉などの人たちです。そして今後研究進めていく上には、やはり石橋湛山を避けて通ることはできないと考えております。

「石橋湛山賞」を貰ってから石橋湛山の研究をするのは、順番が逆のような気もするのですが、これまで研究した内容を踏まえつつ、石橋湛山とその他の人との比較、関係を明らかにしていくことによって、新しいアプローチができるかと思っています。

今回賞を貰うことになりましたけれども、まだまだ分からないことは沢山あります。もともと経済思想史――日本史とは異なる分野の勉強をしてきた人間で、全く分からないところから出発した訳ですけれど、やはりその分からない中で、また先行研究もそれほど多くない分野でしたので、自分で考え自分で調べていくことを何年か繰り返してきました。その結果としてこういう賞をいただける内容になったのかなと思います。ただ分からないことはまだ沢山あり、今後とも何も知らないという自覚して、新鮮な気持ちで研究に取り組んでいきたい考えます。

最後に、小野一雄さん、松室徹さんをはじめとする中央公論新社の皆様方、自由な研究を許していただいた京都大学大学院経済学研究科の先生方、京都で出会い共に勉強し議論してきた若手研究者の皆様、そして現在の研究環境を提供していただいている摂南大学に、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

牧野邦昭氏・受賞記念講演

「戦時下の経済学者――石橋湛山・高橋亀吉との関係を中心に」から

1、河上肇『貧乏物語』と第1次大戦の影響

さて私の本では、最初に実は河上肇を取り上げています。河上は京都帝国大学の経済学者で、現在でも「人道的マルクス主義者」としてよく知られています。河上の代表作としては、大正5(1916)年に大阪朝日新聞に連載された『貧乏物語』があり、岩波文庫にも入っています。

読まれた方もおられるかもしれませんが、内容を簡単に紹介しますと、最初に欧米における大きな貧富の格差が統計を使って分かりやすく紹介されており、続いてなぜ貧富の格差が生じているのかが説明されています。つまり、金持ちも貧乏人も必需品――食品などを消費する訳ですが、必需品ばかり消費していてもだんだん飽きてきます。つまり経済学的に言えば限界効用が逓減してくる。金持ちはより多くお金を持っているので、必需品に飽きてくると今度は奢侈品、つまり贅沢品を消費するようになる。ただ、この奢侈品の生産に資源が使われてしまうと、今度は貧乏人のための必需品の生産が行えなくなってしまい、必需品価格が上昇していく。それによって貧乏人の生活はますます苦しくなっていきます。

……中略……

このような『貧乏物語』は、当時の多くの読者に社会問題、経済への目を開かせる一方で、貧富の格差についての説明、あるいは金持ちは自主的に贅沢をやめるべきだといった主張に対する、多くの批判がなされます。河上はそれに応える形で、マルクス主義に近づいていき、やがて京大教授の職を投げ打って社会主義実践運動に入っていく。そして最終的に日本共産党に入党して、昭和8年、治安維持法違反容疑で検挙されることになります。

しかし河上が『貧乏物語』を書いた背景に注目すると、『貧乏物語』を単なる人道主義的な貧困解決の方法を示した本というよりは、もう少し違った形で読むこともできます。

河上は大正2(1913)年から二年間ヨーロッパに留学していますが、ドイツ滞在中に第1次大戦が勃発します。日本は日英同盟に従ってドイツに宣戦布告することになったので、河上は間一髪でドイツを脱出、イギリスに向かうのですが、その際河上は、ドイツが大学などの機関の閉鎖、あるいは金の兌換の停止などを行い、急速に戦時経済体制に移行したことをつぶさに見て、日露戦争当時の日本と比べて、これは非常に大きな違いがあると驚いています。

河上は当初は、こうした戦時経済体制はあまりにも無理があるので、長くは続かないのではないかと考えていたようですが、ドイツがイギリスなどの経済封鎖を受けながらも四年以上戦い続けたことに感心したようです。『貧乏物語』の中で河上は、第1次大戦でのドイツの例を挙げて、奢侈・贅沢を廃止することで多くの国力が生み出されるので、欧米と比べて経済水準の低い当時の日本は、ドイツが戦争中に行っていることを平時――平和な時期から行っていくことで経済を発展させていかなければならない、と主張しています。つまり奢侈・贅沢を廃止することによって、金持ちが使っていた資金や奢侈品生産に使われていた資金・資源を社会に必要な生産に振り向けていく。このような『貧乏物語』の論理は、河上が体験した第1次大戦という総力戦の経験からきているものだと言えます。

そして河上は、経済上の論理だけではなく、人々が利己主義から利他主義、他人のことを考えて行動する考え方へ変わっていく可能性をも、第1次大戦という総力戦に見出しています。つまり総力戦への突入により、イギリス、ドイツ、フランス等々では人々の精神が国家に奉仕する精神に変わることで経済組織が変革され、さらにそれによって人々の精神が支配されることで、利己主義から利他主義への変化が戦後も継続していく。河上は『貧乏物語』でこのことに期待を寄せています。日本が一種の総力戦として貧乏退治を行っていくことを主張したとも解釈できます。

このように河上の『貧乏物語』には第1次大戦の影響が色濃く表れており、そこで行われた主張は、第2次大戦の際に日本に登場した経済思想に形を変えて表れてくることになります。『貧乏物語』で強調した奢侈の廃止による必要な生産という主張は、やがて唱えられる「贅沢は敵だ」というスローガンに対応するものでした。そして、利己主義から利他主義への転換が必要であるという主張も、昭和一五年、総力戦に対応して展開された経済新体制運動の中で唱えられた「利潤本位から生産本位へ」というスローガンと対応するものでした。

河上が、日本から貧困をなくすことを心から願っていたことは間違いありませんが、結果的にその思想は戦時下の経済思想を先取りするものとなってしまった訳です。そのため、本書でも最初に、戦時下の経済思想の原型として河上肇を取り上げています。

2、周辺では縁が深かった、河上肇と石橋湛山

さて、河上肇と石橋湛山、高橋亀吉にはどのような接点があったのでしょうか。まず河上と石橋湛山ですが、両者の直接の関係はほとんどありません。河上が石橋湛山に言及したことはあまりありませんし、『東洋経済新報』に寄稿したのは、昭和7年(2月13日号)に「金本位制度の研究」という特集を組んだ際に、論文を書いたときだけです。

湛山は、昭和恐慌からの脱出策として通貨供給量を増加させて物価を上げるインフレーション政策を主張した訳ですが、河上の論文の内容は「通貨を増加させても物価が上昇するのみで購買力の増加には結びつかない。しかも労働者の賃金の上昇は物価上昇に遅れるので事実上の賃金の引き下げにしかならない」ということで、石橋湛山の主張を批判し、結局のところ資本主義の廃止こそが恐慌からの唯一の抜け道であるとするものでした。

『石橋湛山全集』の索引でも、河上肇は、今述べたインフレーション批判に対する湛山の反論でしか登場しません。同全集第15巻の石橋湛山年譜を見ると、湛山は河上の本を何冊か読んでいることは分かります。ただその何冊かの本が、石橋湛山にどれくらい影響を与えたかはかなり疑問が残るところです。

ただ、河上周辺の人々と石橋湛山は比較的交流がありました。政治家では、京大経済学部で河上肇に師事し、戦後は自民党ハト派として知られた宇都宮徳馬と、湛山との関係が比較的有名です。また戦後、京都府知事として革新府政を行った蜷川虎三は、もともと河上門下の統計学者だったのですが、早い時期から『東洋経済新報』の愛読者であり、『湛山回想』にも出てくるとおり、金解禁論争の頃、京都における東洋経済新報主催の講演会で、湛山とともに講師となっています。また蜷川は、河上肇の娘・芳子と自分のゼミ生の鈴木重歳との縁組をまとめている訳ですが、鈴木重歳は東洋経済新報の英文誌『オリエンタル・エコノミスト』の記者であり、東洋経済への鈴木の就職も、実は蜷川が働きかけて実現したという話もあります。

そして戦中戦後、石橋湛山と深く交流した河上関係者の代表としては、山本勝市という人物が挙げられます。山本については私の本の第2章で比較的詳しく扱っていますが、もともとは『貧乏物語』に感動して京都帝国大学で河上に学んだ人で、社会主義者として出発します。しかしヨーロッパ留学中、フランス重農学派、ケネーなどの研究を行って、経済における自然の秩序、つまり市場メカニズムが「見えざる手」として働くことによって生じる社会の秩序の重要性を知り、また実際に当時のソ連を訪れて経済建設が大きく遅れていることを知り、社会主義批判者になっていきます。

さらに山本は、当時、ミーゼス、ハイエクといった人たちが議論していた「社会主義経済計算論争」に注目しています。つまり経済においては費用と便益を比較して生産を行わなければいけない。資本主義では市場価格によって費用と便益との比較ができるが、社会主義ではそもそも市場が存在しないのだから価格が存在しない。したがって費用と便益を比較する手段がないため効率的な生産は不可能である。こうしたハイエクらの議論を参考にして、市場メカニズム、特に価格を形成する自由な市場を維持することを強く主張し、社会主義を批判していきます。

こうした山本の思想は、社会主義思想を弾圧していた当時の文部省には非常に都合のいいものでしたので、山本は文部省の研究所で学生の左翼化を防止する、あるいは転向させるための活動に従事する訳ですが、他方、戦時体制下において統制経済への志向が強められてきますと、山本の立場は統制経済を志向する陸軍だとか、あるいは当時の革新官僚と呼ばれた人々と、大きく対立するものになっていきます。

昭和14(1939)年に、当時朝日新聞の論説委員で、戦後朝日新聞の論説主幹になる笠信太郎が『日本経済の再編成』を発表します。これは有沢広巳が事実上執筆したものともいわれますが、利潤本位から生産本位への転換を訴え、当時の経済新体制運動の骨子としてベストセラーになります。一方で山本はこれを批判する論文を発表し、統制経済に対する批判者として、財界や鳩山一郎など政党政治家から注目されていきます。山本はこちらの経済倶楽部で何度も講演して、経済新体制運動を批判しています。これはおそらく、石橋湛山が統制経済批判の一環として山本を招いたものを思われます。

なお山本勝市は戦後、日本自由党の創立委員となります。同じく戦後、石橋湛山が政界入りするに際して日本自由党を選んだ理由はいろいろ議論がされていますが、一つにはこの山本との関係が影響しているかもしれません。その後、山本と湛山はともに公職追放を挟んで政界に復帰しますが、吉田茂と鳩山一郎との間の政治抗争の際には、ともに経済政策案を策定するなど、同志として行動しています。山本は埼玉県が地盤ですが、選挙の際には湛山は応援演説に出掛けています。

山本自身はかなり反共主義者でタカ派の人物なんですが、経済における自由競争、自己責任を重視し、政府の過度な規制に反対するという経済自由主義の点で、湛山はかなり共感する部分があったようです。

3、主張に類似性がある河上肇と高橋亀吉

一方、高橋亀吉と河上肇はどのような関係にあったのでしょうか。高橋には『全集』がないので、個々の著作を私が読んだ限りでは、河上への言及は、石橋湛山同様に河上の金解禁後のインフレーション批判に対する反論――やはりインフレーション政策は必要だという形の反論しかありません。

ただ実は、河上の『貧乏物語』と初期の高橋の主張とはかなり似ています。河上が『貧乏物語』で金持ちの贅沢を問題にしたことはお話したとおりですが、高橋も金解禁論争の頃まで金持ちの贅沢をかなり問題としています。金持ちの贅沢こそが、第1次大戦後日本経済の停滞と労働者や農民の生活の困難を引き起こしていると主張しています。高橋はなぜ貧困が生じるかについて、現代の資本主義社会では必要と需要が全く離れている、金持ちの欲望を満たす需要が増加していけば、価格メカニズムによって需要を満たす生産が優先されていき、貧乏人に必要なものの生産は行われないので、貧乏人の生活は非常に苦しくなる――といった主張を行っていますが、これはまさに河上が『貧乏物語』で行っている主張と同じです。

さらに高橋はもっと現実的な話として、資本家は自分の贅沢を行うために株式会社に株式の配当を行うように強制している。そのため会社は無理をして事業を売ったりして配当する蛸配当を行って資本が大幅に悪化していく。つまり株主を過度に重視することがかえって資本蓄積を阻害して、それで企業経営を悪化させ、日本経済全体に悪影響を引き起こす。したがって、財を所有するだけで働いていない人の利益を制限して、実際に働いている人々の負担を軽減していくように、高橋は主張しています。

なぜ河上肇と高橋亀吉が似たようなことを言っているのかというと、二人ともイギリスの経済評論家で、『エコノミスト』誌で活躍したウィザーズという人の影響を受けているからです。つまり、ウィザーズは金融の解説書を沢山書いているのですが、資金を無駄遣いしてはいけないと言っている。資金の持ち主が産業に投資するのではなくて、自分の楽しみのために無駄遣いしてしまうのであれば、生産力は向上せず産業は発達しないとして、資本家に資金を無駄遣いしないよう繰り返し主張しています。河上の『貧乏物語』に、こういったウィザーズなどの当時のイギリス経済思想の影響があることは、前から指摘されていましたが、高橋ものちに、金融を研究する上で、かなりウィザーズなどの本を読んで勉強したと述べています。

……中略……

そして金解禁論争後、高橋は、国家が中枢機関による指導を強めるとともに、一方で資本主義原理を利用して経済力を強化していくべきだとする、一種の「国家資本主義」を主張しています。昭和恐慌をへて民間企業は多大な犠牲を払いながら経済合理化を進め、かつて高橋が批判したような蛸配当などの無駄遣い、資本の浪費というのも目立たなくなりました。したがって、経済力を強化していくためには、経営能力を持たない官僚よりも、復活した民間企業を利用して資本蓄積、生産力の強化を進めなければいけない。国家も現業部門においては、自由裁量に基づいて民間企業と同様に経営を行っていかなければならないといった主張を行っています。

高橋が旧平価金解禁に反対し、金解禁後は金本位制からの離脱を主張したことは有名ですが、一方では、昭和恐慌を、結果として資本の浪費を廃絶させ、日本経済の合理化と経済発展をもたらしたという点で肯定的に評価している点も見逃せないものになります。ただこうした高橋の一種の生産力主義、合理主義というものが、日本経済の強化には満州、中国、さらには東南アジアの資源が不可欠であるとして、日本、満州国、中国を合わせた「日満支ブロック経済」、そして「大東亜共栄圏」を積極的に肯定する点につながった点も、残念ながら否定できません。

石橋湛山の場合は、世界恐慌後のブロック経済への動きはあくまでも一時的なものであるとして、満州国の存在も消極的に認めつつ、国際的な分業の重要性、そしてその基礎となる協力関係の重要性を訴え続ける訳ですが、高橋は、自由貿易の時代は終わって、これからブロック経済の時代である、したがって日本も自国に必要な資源を確保するために、満州、中国を勢力下に置かなければならないという主張を行うようになります。湛山は、現実の社会の動きとは別に、先の時代を見据えて主張・行動するという、時代を見通すことのできる人であったのに対して、一方の高橋は現実の社会の動きを正確に理解して主張・行動するという、時代をつかむことのできる人であったと私は考えています。

……中略……

4、総力戦へ経済学者がお墨付きを与えた可能性

5、合理的戦時経済遂行に必要だった欧米経済学

6、敗戦見越した湛山・亀吉の活動が、戦後生きる

7、時代時代で問われる、経済学の使われ方

8、敗戦の日、日本の前途を見通した河上・石橋

私は、日本が敗戦になって小国になった、それによって逆に多くのものを得たということを、河上肇および石橋湛山が見通していたことに注目したいと思います。

小国になって逆に多くのものを得たということは、実はあまり言われていないのです。例えば総力戦によって多くの経済の経験を積んだことが、戦後に日本に役立ったということはよく言われます。私の本の最後でも高橋亀吉に関係してそのようなことを述べています。高橋は終戦直後、「国民が総力を挙げてアメリカなどと戦ったことは、これは一千万円の資力で事業を営んだ経験である。それは戦争による富の破壊と領土の削減によって『十万円の資力』になった日本が復興していくうえでも役立つものである」と主張しています。

戦争を通じて実現した重工業化などが戦後の復興や経済成長に影響したことは事実ですので、高橋の言ったことは基本的には正しい訳ですが、一方で日本は小国になった、正確には人々がそれを認識したことによって、大国の象徴とされる軍事力、植民地に頼る意識を捨てさせて、一人一人の国民の力で復興しようとしたことが、戦後の日本の経済成長につながったとも考えられます。

河上肇と石橋湛山はすでに紹介したように、生き方、経済思想は対極的ですが、ともに戦時期の日本を一種の「国内亡命者」として生きたという点で共通点があります。

河上は昭和8(1933)年治安維持法違反容疑で逮捕され、4年近い獄中生活を送ります。河上の獄中日記を見ますと、獄中で読むことを許可された『東洋経済新報』からスペイン内戦などの世界の動きを読み取っています。昭和12(1937)年の出獄後、河上は当局の監視対象となりながら実践活動からは引退して、漢詩の評釈などをして過ごします。ただ戦時中の日記を読みますと、淡々と日常生活が書かれながらも、戦局・戦時経済の悪化を冷静に分析しています。

一方、石橋湛山は皆さんご存じのとおり、『東洋経済新報』において時局への批判を粘り強く継続していき、先ほども述べましたように早い時期から敗戦を見越して活動を続けています。

河上は昭和20年8月15日、終戦を告げる玉音放送を聞いた日の日記に、「あなうれし とにもかくにも生きのびて 戦やめるけふの日にあふ」という歌を書き記しています。その後、昭和20年9月1日の日付で「小国寡民」という文章を書いて発表しています。

……「小国寡民」からの引用、略……

一方、石橋湛山は、『東洋経済新報』昭和20年8月25日号の社論「更生日本の門出」において次のように述べています。

……「更生日本の門出」からの引用、略……

多くの人が敗戦によって茫然自失している中で、国内亡命者となりながらも、すでに戦時中から日本の敗戦を見通していた河上肇と石橋湛山は、ともに日本の小国化をかえって日本の発展の契機になると歓迎しました。大国の象徴と考えられてきた植民地や軍事力への固執を捨て、自由になった国民が科学的精神に徹することで、日本は逆に発展していくことができるとする、河上や湛山の前向きな主張は、現代の私たちにとっても意義深いものであると思います。

私自身は、現在の日本経済は今後とも経済成長していくことは可能であると思いますが、他方では新興国の急速な経済成長によって、国際社会における日本の相対的な経済的地位というものは小さくなってきていること、日本が相対的に大きくない国になりつつあることも、また事実です。そのような状態の中で日本の発展を目指していく場合、日本がかつてアジアの唯一の経済大国と呼ばれていた時期と同じ考えで政策を進めることは、あまり意味がないでしょう。これまでの日本経済の発展の中で培ってきたノウハウを生かしつつも、経済大国時代の意識を捨てて、大きくない国となりつつある日本の現実を見据えながら、しかし前向きに進んでいくことの重要性が、戦時下の経済学者たちから私たちが学べることであるように思います。

「自由思想」124号(2011年11月刊)に全文を掲載しています。

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