第33回受賞:齊藤誠氏

齊藤誠氏
『原発危機の経済学――なぜ起きたかのか、何を学ぶのか』
(日本経済評論社、2011年10月刊、1995円)

齊藤誠 (さいとうまこと) 氏

齊藤誠 (さいとうまこと) 氏
1960(昭和35)年愛知県生まれ。83年京都大学経済学部卒。92年マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。
住友信託銀行調査部、ブリティッシュ・コロンビア大学経済学部助教授、などをへて、現在、一橋大学大学院経済学研究科教授。
2007年日本経済学会・石川賞、2010年全国銀行学術研究振興財団賞を受賞。
専攻:マクロ経済学、ファイナンス理論。

著書:
『新しいマクロ経済学』(有斐閣、1996年、2006年改訂)
『金融技術の使い方・考え方』(有斐閣、2000年、日経・経済図書文化賞)
『先を見よ、今を生きよ』(日本評論社、2002年)
『成長信仰の桎梏』(勁草書房、2006年)
『資産価格とマクロ経済』(日本経済新聞出版社、2007年、毎日新聞社エコノミスト賞)
『競争の作法』(ちくま新書、2010年)
ほか、多数。

受賞の挨拶

問題を自分に引きつけて考えたかった―― 齊藤誠

問題を自分に引きつけて考えたかった――齊藤 誠 今回は本当に名誉ある賞をいただき、ありがとうございます。選考委員の先生、財団の方々、日本評論社の方々にお礼申し上げます。

この本に書いたことを考え始めたのは、2011年3月11日の地震直後からでした。実は私は地震リスク――建物の耐震構造の経済学的な研究を10年くらいやっていて、日本の建築基準や耐震基準についての知識を持っていました。原発については初めて耐震基準ができたのが1981年、そして本格的に改訂されたのが2006年です。基準導入前の70年代前半に運転開始した福島第1、敦賀、美浜に関しては、以前から非常に気になっていたのです。

それで、地震から一時間足らずで津波がきて、「本当に大丈夫かな」と。翌日、あんなに早く1号炉が爆発するとは思ってなかったのですが、炉心溶融という本当に深刻な状況も、当然考えなければいけなくなった。

そのような中でとにかく考え始めたのですが、こと原発に関しては全くの素人で分からないことばかり。原発の本を片端から読んでみても、いま一つリアリティ――いわば原発施設に対する現実の手触り感が得られない。

なかなかそういう本がなかったのですが、そこで出会ったのが、京大原子炉の所長を務められた柴田俊一先生のご著作(『新・原子炉お節介学入門』)です。カジュアルな本ですが、運転している側からの視点で大変に興味深いことを書かれていた。私は原子炉を訪れたことがないので、初めて実際の原子炉の風景が浮かんできた。そういう感覚が思考の出発点だったのです。

実は湛山賞をいただいて、若い時分に買った岩波文庫の『湛山回想』を、改めて読み直しました。その中でおぼろげには覚えていたのですが、湛山は25歳の時、1年志願兵として軍隊生活をしており、その時の恐怖体験が自分の平和主義の一つの原点になったと書いています(原文を引用――次項の記念講演を参照)。湛山の戦争反対論の根幹には、そういうリアリズムがあったと思っています。

湛山のアプローチと同様に、私たち社会科学者も何かものを考える時に、現実の風景のすごさや恐ろしさの経験というものが原点になるのではないか。経験できない時には、書物などいろいろな媒体を通して再構築してみることが必要ではないか。

今回私は、現場にも行けないし、事前にそれほど技術的なことが分かっていた訳ではないのですが、研究者としては手触り感の中で、原発問題を自分に引きつけて考えてみたのです。福島第1の事故から3カ月(出版は2011年10月だが、脱稿は6月末)という短い間、考え続けたわけです。

この本の中でいろいろなことを書きましたが、本当に書いてよかったなと思ったのは、叶先生が言われた地層処分の件です(表彰式での選考委員講評)。

原子力学会の定義では、使用済み核燃料の核廃棄物のエッセンスをガラスで固めて、それを地下何百メートルに沈める。その後は地下へ行く通路も全部埋めてしまって、何も管理しませんよと。要するに「永遠に貯蔵する」と言いながら、一切の管理から人間が手を引くというものです。これはちょっとまずいな、何千年の単位で進行するものを、最初から管理を放棄するとはなにごとだと。

それならばむしろ、管理ができる地上で中間暫定的処理を進めた方がよいのではないか。いろいろ調べてみると、50年くらい経過をするとある程度は安定した状態になる、ということが分かってきたので、廃棄物は100年~200年の単位で地上に管理する、その管理のできる範囲の中で、原発を動かしていけばいいのではないかと、考えたわけです。

こうしたことを書いたら、脱原発、原発推進のどちら側の方にも、激しく批判をされて、袋叩き状態、サンドバッグになったのです。ところが、日本学術会議がこの(2012年)9月に出した報告で地上保管を打ち出した。この報告は純粋に技術論だったのですが、社会科学的発想で考えてきたことと、自然科学者の方々が考えてきたことが、対応していて、あの報告が出た時は非常に嬉しかったのです。

もちろん、本の中では間違って考えたこともありますが、どうにかこうにか、現在進行形の中で試行錯誤しながらリアリスティックに考えることができました。

石橋湛山もそうしたリアリズムを追究された方だと思うのですが、その名を冠した賞を今回いただけたことは、本当に光栄に思っています。

ありがとうございました。

齊藤 誠氏・受賞記念講演(抜粋。2012年11月2日、於・経済倶楽部)

「原発危機の経済学――社会が原発を受け入れる条件とは?」から

このたびは本当に名誉ある賞をいただきまして、ありがたく思っています。財団の方々、選考委員の先生方に深く感謝いたします。

今日は受賞対象の本にちなんで、「原発危機の経済学――社会が原発を受け入れる条件とは?」という演題で、お話をさせていただきたいと思います。

先ほどの授賞式の時のご挨拶でも申し上げたのですが、実は、若い時に岩波文庫の『湛山回想』を買っています。その文庫本はすでに大分古びているのですけれども、今度読み直してみて、おぼろげながら記憶が甦ってきました。石橋湛山は(早稲田大学を出て、最初の就職先だった)東京毎日新聞を退社した25歳の時、東京麻布の歩兵第三連隊に1年志願兵で入営しています。その「軍隊生活」の最後の部分には、こう書いてあります。

「しかし私は試みに、一度この標的の下にある看視壕(かんしごう)にはいって見た。その折、撃ったのはわずかに一千発程度の小銃弾に過ぎなかった。しかし、それが頭上をうなって通過し、あるいは付近の樹木その他に当たってはね返る音響は、身の毛のよだつ、すごさであった。もしこれが実戦で、この弾雨の中に飛び出さねばならぬとすれば、私には到底出来そうもないと思った。その後の私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの実弾演習の実感が強く影響していたと思う。」(岩波文庫版134㌻、『石橋湛山全集』⑮巻84㌻) この一節には、石橋湛山の平和主義の根底になった原体験の一部が書かれていると思うのですが、やはり、社会にとって非常に重要な問題について考える時には、実体験や、対象へのある種の実在的な感覚みたいなものが、非常に重要になってくると思います。

1、対象への実在感、リアリティが大事

昨年の3月11日2時46分に地震があって、その後1時間たらずで東北地方の太平洋岸に大津波が襲来しました。

実は、私はここ10年ぐらい、地震リスク、特に耐震構造に関しても経済学的な研究をしていました。そうした事情で、原発施設の耐震基準についても一通りの知識はありました。

原発施設について公の耐震基準が決まったのは1981年です。それ以前に設計された原発施設は、電力会社の自主的な基準で建てられていました。そういう意味では、1970年代に稼働し始めた原発に関しては、1981年の時点に立った耐震基準で考えてもさまざまな問題があったと言われています。特に1970年代の前半に動きました福島第1原発、敦賀、美浜については、耐震構造の面からも問題視されていたので、ニュースで福島第1、第2、女川も津波の被災を受けたと聞いた時、女川や福島第2は大丈夫だと思ったのですが、「福島第1はどうなるのか」、翌12日、水素爆発(15時36分)が起こって、「このままいくとどうなるのか」とすごく心配になりました。

原発に関しては、一通りの知識は持っていたのです。しかし、原発に対して自分の中にリアリティをまったく持ってなかったわけで、限られた時間と限られた情報の中でできるだけ原発の実在感を頭の中で再現しながら、今度の原発の事故に関して考えを巡らせました。

そういう意味では、石橋湛山の思想はいつもリアリティに立脚していて、そうした思想家の名前の冠された賞を今回この本で受賞したことは感慨深く、自分自身でも非常に感激しております。この夏に、財団の石橋理事長から受賞の連絡をメールでいただいたのですが、はじめは間違ったメールではないかと思いました。しかし、実際に決まったとのことで、今までいくつか賞をいただいてきたのですが、いちばん嬉しい賞でした。私は石橋湛山をリアリズムを徹底した思想家としても尊敬していまして、そういう方にちなんだ賞をいただくことができまして、今回本当にありがたく思っています。

2、技術の新陳代謝を怠ってきたツケ

本日は原発を中心に先端技術の新陳代謝の話をしていきます。今の時点に立つと、社会が原発を受け入れるかということでは、ほど遠い状況にあります。しかし一方では、このまま原発を拒否してしまえばいいのかというと、そうもいかないさまざまな事情が控えています。本日考えたいのは、原発が社会に受け入れられていくためには、広い意味の技術進歩に基づいた新陳代謝をかなり意識的に進めていかないといけないということです。今回、福島第1の事故が起きたのは、原発の広い意味の新陳代謝を社会の側も、電力会社の側も、資金供給者の側も怠っていたからではないかということです。そうすると逆に、受け入れられる素地をつくっていくためには、技術の新陳代謝をかなり意識的に促すような考え方でいかなければいけない。 ……中略……

私の本では、福島第1原発の事故は、原発一般の安全性が問われた問題なのか、あるいは、さまざまな面で技術の新陳代謝を怠って古い状態であったがゆえに、福島第1原発のサイトに特有の要因で起きてしまったのか、ということを慎重に切り分けていって、もし後者が主因であれば、私たちが直面している問題は乗り越えられるのではないかと考えております。

この本では、原発の、特に軽水炉発電と言われている技術に関しては、今後も産業技術としての可能性があって、技術の新陳代謝を怠らなければ、社会の中で居場所を見つけることができるのではないかということを書いております。もちろん無条件にどんどん原発が建つという事態はないと思いますけれども、一方で、原発に関わる先端技術を閉ざしてしまうことは絶対に回避しなければいけないと思っております。

3、等身大ではない原発問題の社会への伝わり方

原発に限らず先端技術が社会に受け入れられるのには、いくつかの側面があります。まず社会との関係です。社会がその技術をどのように受け止めているのかについては、当該技術の等身大のイメージが社会に正確に伝わっているのかどうかが、非常に重要になってきます。特に私たちの生活に直結する民生技術の場合、産業技術として可能性のある技術なのかどうか、ということが人々のイメージの中にしっかりと定着しているかどうかです。原発に関しては、なかなかうまく社会に伝わっていなかった、伝えてもいなかったのではないか、と思っています。

(中略――軽水炉発電とは何か、再処理とは何か、高速増殖炉との違い)

そういう本当に危険な部分と問題が切り分けられてなくて、混然一体となって「原発は危険なものだ」ということになってしまっているように思います。

4、資金の出し手の認識と、経営的判断の責任

次に議論したいことは、原発に限らず巨大プロジェクトには莫大なおカネが必要ですが、資金を調達していく過程で、おカネを出す側――株主や銀行や社債を保有する機関投資家と、原発を運営している電力会社との間で、円滑なコミュニケーションができているのかどうかです。今回の場合を見ていても、投資家はおカネを出しているけれども中身は知らないというような状態になっている。これは普通のプロジェクト・ファイナンスではありえないことです。おカネを出す方がいくら文系だといっても、通常は、技術の中身について十分に審査をし、その安全性、収益性を見極めておカネを出しているのですが、こと原発に関しては、「国がお墨付きを与えているからOK」という感じで、おカネを出す側にとってのリスクの認識がずいぶんと甘かったかもしれません。

また、経営との関係では、経営者が技術者であることの方が少なく、高度な技術を収益事業として使っているような企業体であっても、社長は技術の専門でない会社が多い。あるいは技術者出身だったとしても、必ずしも当該技術の専門家ではない。そういう中にあっても、さまざまな局面で経営が当該技術に対してどういう判断をするのかということは、非常に重要だと思います。

今回の場合、事故が起きる前の段階で経営に責任があるとすると、技術状態をどこまで新しくしていくのかに関する経営判断だと思うのです。……今回、過酷事故状況になって、ベントをするとか、海水の注水をするとかいう決断がなされています。これらの措置は直ちに原子炉を将来廃棄することに帰結するわけで、それ自体も最終的には経営が判断しないといけないことですが、その時、経営の方に技術の全貌が理解されていたのかどうかです。

(中略――公的規制は「最低限」、万能ではない)

5、81年規制以前の原発が残っている現実

こと原発に関して言うと、先ほど申し上げたように公的な建築基準ができたのが1981年です。ただこれはそれほど厳しい基準ではなかった。本格的な規制基準ができたのは2006年。したがって、最初に導入された81年から2006年までの25年の間、81年の基準がずっと生きていたわけです。2006年の基準は非常によくできていて、限定的な形ですけれども津波への対策も求めていたのです。それでは、2006年の基準に福島第1原発の6つの炉が全部従わなければいけなかったかというと、もちろん保安庁は「従ってほしい」とは言っていましたが、強制はできなかったのです。

結果、どういう状態になっていたかというと、福島第1原発は71年が運転開始で、その後8年ぐらいの間に2号炉から6号炉までできているのですが、70年代の原発は、電力会社の自主的な基準の中でつくられているので非常に甘い形になっている。その後81年基準に対応するための補修、改修は徐々に入れていったのですが、例えば1985年の時点で見て、その時にできた新しい技術と比べると、補修、改修のパッチワークでやっていたものは安全性が劣っていたと言われています。

ではさらに、福島第1原発が81年基準はクリアしていたが、2006年基準に合っていたかというと、全然合っていなかった。これは国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)の報告が詳しく説明しています。

(中略――廃炉が合理的だった、人の問題、経営上の判断躊躇)

6、社会が原発を受容するのに必要な緊張関係の構築

私の本の中ではそのほかに、地元の住民との合意の形成ということについても考えています。これも非常に難しい問題を抱えていたと思います。私の本の中から一部を読ませていただきます。

「福島第1原発が危機的な状況になったという報に接して、原発の運営に責任を持つ東電関係者も、原発行政の責任を担っている経済産業省関係者も、『あれほど大きな地震や津波が到来して、すべての非常用電源が落ちてしまったのは、まったく想定していなかった』と一様に口をそろえた。

一方、原発施設の周辺に住む人々やその地域の市町村関係者は、『絶対に安全だといっていたのに、このようなことが起きるとはまったく信じられない』と怒りの声を東電や政府に向けた。

ベクトルの方向がまったく正反対に見える、これら二つの発声には、たった一つ、本質的なところで共通点を有している。それは、『福島第一原発の危機的な状況の現場に、今、まさに自分がいること』に対して、過去の自分の決定の積み重ねが何らかの形で作用していることが事実であるにもかかわらず、その事実を真正面から受け止めていないところである。言い換えれば、『これまでに意思決定を積み重ねてきた古い自分』を完全に否定して、突如として『これから意思決定を行おうとする新しい自分』を肯定しているのである。」

「これまでの自分」と「これからの自分」の分裂は、特に経営側に大きかったと思います。要するに、可能性としては古い原発が自然の脅威に脆弱であることまで含めて考えて運転していれば、事故当座にやむなく「想定外だった」としてしまったことも、シナリオの一つとして当然あらかじめ考えておかなくてはならなかった。原発の運転でカネ儲けをしているわけですから。しかし、まったく考えていなかった。それは結局、公的な規制で政府がこの状態でお墨付きを出しているのだから、民間企業としてはそれ以上のことはしなくていいと理解していた。規制はそういうふうに理解するものではないのですが、そう理解してしまっていた。

ただ、これは電力会社だけがそうだったかというと、住民の方も全く事故が起きるということを想定していなかったわけです。その根拠はと言えば、政府の厳しい規制を通って「絶対安全だ」と言ってくれたのだから、「それで事故が起こるはずはない」という了解ですね。しかし、世の中には「絶対」というのはありえないわけですから、いくばくかの可能性でそういうことを考えておかないといけないのです。しかしどちらも公的規制に下駄を預けるような形にして、住民や地方自治体もあるいは電力会社の方も、その規制に照らして合法的な状態であるというところに甘んじてしまって、それを超える事態に関しては何も考えていなかったわけです。

これは、そういう危険性を含めた技術を運営する方にも責任があるけれども、福島の地元で原発を受け入れている方も、「話が違う」というふうにはなかなか言えないと思うのです。今後のことを考えていくと、この点はしっかりと議論したほうがいいと思います。

この夏、再稼働問題の時に起きたことはかなり不幸なことです。私が今まで言った議論を裏返しにすると、十分に新しい施設の原発に関しては順次動かしていくべきだと思いますし、逆に、70年代につくられた原発に関しては、40年経っていなくても運転停止、廃炉にすべきだと思います。ですから、原発をゼロにするとは全然思わないのですが、しかし再稼働を急ぐあまりどんなことが起きたかというと、地元の自治体が国に安全性の言質を取ることに必死になって、それをテコに住民を説得して合意形成をし、さらには、ちょっといやらしい話ですけれども、公共投資の誘致のようなことが何となくの条件になっていく形で、再稼働が進められてきたわけです。 これでは全く以前のままです。結局、自治体や住民は全部政府に下駄を預けて、電力会社も「政府がいいと言っているんだから」という形で再稼働する。これだけの事故が起きたのにこういうやり方はありえないと思います。

(中略――再稼働への議論、緊張感を持った現実対処の必要性)

これは冒頭申し上げた石橋湛山のことで言うと、軍隊の演習で看視壕に入った時、これはおっかないと思った。それは本当の戦争ではないのだけれど、できるだけリアリティのある中で考えていく。そういう緊張感を皆が持つようになって、はじめて社会が原発を受け入れる。原発事故がいつ起きてもおかしくない状態であれば、日本の中に原発を残す場所はなかなか見つけられないと思うのですが、さまざまな危険性のある問題を徐々に整理していけば、軽水炉発電事業の部分の根幹は残して電力供給することが、日本経済の付加価値を高めることに貢献するのではないかと思っています。

7、放射性廃棄物は人が管理できる地上施設で

8、敗戦の日、日本の前途を見通した河上・石橋

その中で最後にどうしても出てくるのが、高レベル放射性廃棄物の地層処分の問題です。

軽水炉発電から出される使用済み核燃料を、「再処理をする」にしても、「再処理をしない」にしても、使用済み核燃料のゴミが出てきますから、そのゴミをどこにどう処分するのか、大きな宿題が出てきます。今、国の方針は、軽水炉から出た使用済み核燃料を再処理して、最後残った非常に危険な高レベル放射性廃棄物をガラス固化して、それを地下深く貯蔵することを考えています。

原子力学会の地層処分の定義は、「放射性廃棄物を地下数百メートル以深の安定な地層中に建設される処分施設に、再び地表に取り出す意図なしに、永久に収納し、人間による管理からはずした状態におくことをいう」です。要するに、未来永劫の施設をつくって、そこに物を置きながら、その管理の責任については「私は知りません」と。これは具体的にどういうことかと言うと、掘ったものにゴミを入れて、地下に行くまでの通路を全部閉める、「あとは知りません」ということです。

こういうところは、技術系の人がモノを考えるといかんなという気がしますが、これは人間の社会ではありえない。

ではどうするか。私が本に書いたのは、5~6年水冷して、あと乾式のキャスクで暫定的な施設に100年単位で安全性を監視しながら、地上保管していくのがよいとしております。

それは二つの意味でよいわけです。一つはきちんと責任を持って管理できるということ。もう一つは、確かに使用直後の核燃料は相当熱くて、放射熱で危険ですけれども、ある程度時間が経過して乾式の保管になるところまで行くと、(それでも危険性はあるが)危険の度合いはぐんと減ります。そのようにしてきちんと貯蔵していく。そういうことを100年の単位でやっていけば、100年、200年の単位で人類が成し遂げてきたことを考えると、処分方法についてもブレークスルーが出てくるのではないかと思います。今のように非常にプリミティブな技術の下で永久貯蔵を考えなくてもいいのではないかと思っています。

この地上保管の部分については、原発推進の人たちからも、脱原発の人たちからもすごく批判を受けました。どっちからも責められて非常につらかったのですが、ただ経済学的に考えるとこれしかなかった。今年(2012年)9月に日本学術会議が「地上保管、暫定保管で、新しい技術開発を期待する。原発を日本全体でどのぐらい展開するかは、暫定的処分の保管の能力に依存して決めていけばいい」という趣旨の報告書を出て、自分の主張との共通点を見出しました。すなわち、原発ゼロでもなく、やみくもな推進でもなく、責任が持てる範囲の中で原発の規模を維持していくということです。もちろん細部には日本学術会議の提言と私の意見の違いがあります。

今回、この本を書いたのは、福島第1の原発事故が発生して実質、最初の3カ月で考えたことです。その間、社会はこの問題について流動的な状況の中であったので、ちょっと恐い気もしたのです。ただ時間が経過する中で、「古いものの費用対効果はどうなのか」、「経営者の管理責任としてどうなのか」、「原発施設を受け入れている地元の自治体や住民の人たちの意思決定としてどうなのか」など、経済合理性を積み重ねて考えていくということは、必ずしも社会に対して突拍子もないことを言っているわけではないと思うようになりました。他方では、できる限り合意可能な範囲の状況を提示しうるのではないかという期待もありました。私の書いたものがすべて完全とはとても言えませんが、そういうことを感じて踏ん張ってきました。

私は、金融とか、マクロ経済のことを本に書いて批判されても全然動じません。というのは、自分の専門であるし、自信があるからです。しかしこの本については相当しんどくて、だから今回賞をいただけたことについては、本当に感謝しております。ありがとうございました。

今日はご清聴ありがとうございました。

「自由思想」127号(2012年12月刊)に全文を掲載しています。

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