石橋湛山語録

国会議員は国政を

私が、今の政治家諸君を見て一番痛感するのは、『自分』が欠けているという点である。『自分』とはみずからの信念だ。自分の信ずるところに従って行動するという大事な点を忘れ、まるで他人の道具になりさがってしまっている人が多い。政治の堕落といわれるものの大部分はこれに起因すると思う。
政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは自分の考えを持たない政治家だ。金を集めるのが上手で、また大勢の子分をかかえているというだけで、有力な政治家となっている人が多いが、これは本当の政治家とは言えない。
政治家が自己の信念を持たなくなった理由はいろいろあろうが、要するに選挙に勝つためとか、よい地位を得るとか、あまりにも目先のことばかりに気をとられすぎるからではないだろうか。派閥のためにのみ働き、自分の親分の言う事には盲従するというように、今の人たちはあまりに弱すぎる。
たとえば、選挙民に対する態度にしてもそうである。選挙区の面倒をみたり、陳情を受けつぐために走り回る。政治家としてのエネルギーの大半を、このようなところに注いでいる人が多過ぎる。

坊主の精神を持つ指導者

私の経済政策をインフレ政策というのは当たらない。私のは経済力増強政策という積極政策である。インフレーションは歴史の示す通り、戦争直後、或は社会的混乱の後に起こるもので、現在の如く一応安定した経済情勢ではお金を出しても、インフレにはならない。
日本には、未だ未だないというが、資産や土地がある。更に唯一の強みは、世界有数の優秀なる人間が多数いる。何故これをもっと活用しないのか?
ところが、池田(勇人)・ドッジ政策はこれを殺している。均衡財政というがこれは経済を縮小しての均衡、つまり消極政策である。ドッジ氏は、元来が銀行家であるから、金を出さずに、物価を下げて不景気にし、賃金をそのままにしようとする。日本をアメリカの下請工場にするには持ってこいかもしれません。
しかし、これでは、日本経済は不安定である。 行詰まりである。現にそうである。企業の大小は問わず、幹部は金を借りるのに浮身をやつしている。それが仕事なのである。これでは産業は復興しないのは当然である。
ドッジ政策に反するからといって、私は反英米政策をいうものではない。米英協調主義である。が、イエス・マン的協調ではならぬ。真の友人は忠告し合うのが本当だ。イエス・マン的関係は一方の奴隷に過ぎない。吉田の米英協調主義は真の親友関係ではないのはこれである。問うべきは問い、正すべきは正すべきである。

死もまた社会奉仕

先日、吉田茂氏が亡くなった時、新聞社から注文されたので若干感想を述べたが このままでは、ぐあいが悪いということで、発表は取りやめになった。かえって石橋に迷惑をかけることになろうとの、私に対する好意から取りやめになったと聞いている。
私は、段別吉田さんの悪口を言ったつもりはない。人が死んだ場合、弔意を表するために、事実を誇張して褒めたり、偉くもないのに偉いと褒めたりするような事は私にはできない。同時に、功績があったものを、好き嫌いの感情をまじえて、それを没却するようなことはした覚えがない。どこまでも冷静に判断して、その人の真の値打ちを明らかにする、また大勢に順応して心にもない言動はとらない。これが今日まで守り続けてきた私の信念である。 吉田さんの場合も、それ以外の何ものでもない。ところが世間一般がそうでないから、私の言に意外の感じをいだくのである。

重箱を集むる愚

吾輩は我が国が大日本主義を棄つることは、何らの不利をわが国に釀さない、否ただに釀さないのみならず、かえって大なる利益を、われに与うるものなるを断言する。朝鮮・台湾・樺太・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。もしその時においてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が騎慢であって、東洋の諸民族ないしは世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲すべし。この場合においては、区々たる平常の軍備を擁するとも、自由解放の世界的盟主として、背後に東洋ないし全世界の心からの支持を有する我が国は、断じてその戦に破るることはない。もし我が国にして、今後戦争をする機会があるとすれば、その戦争はまさにかく如きものでなければならぬ。しかも我が国にしてこの覚悟で、一切の小欲を棄てて進むならば、おそらくはこの戦争に至らずして、騎慢なる国は亡ぶるであろう。

行政の一大改革

元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。 国民一般が一人前に発達したる後においては、政治は必然に国民によって行われるべきであり、 役人は国民の公僕に帰るべきである。 而して、政治が国民自らの手に帰するとは、一はかくして最もよくその要求を達成し得る政治を行い、 一はかくして最もよくその政治を監督し得る意味にほかならない。 このためには、政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。 現に活社会に敏腕を振るいつつある最も優秀の人材を自由に行政につきものの中央集権、 画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令の如き)というが如き行政制度は、根本的改革の必要に迫られざるを得ない。 今日の我が国民が真に要求する行政整理は即ちかくの如きものでなければならぬ。

『孤高を恐れず~石橋湛山の志』佐高信著、講談社文庫より

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