石橋湛山略歴

石橋湛山は、日蓮宗の僧侶杉田日布(当時は湛誓。のち身延山久遠寺第81世法主)を父、きんを母として、1884年9月25日、東京市麻布区(現在の港区)に生まれました。故あって母の姓石橋を継ぐ。 1903年に早稲田大学高等予科に入学。のちに1904年大学部文学科(部)哲学科に入学します。ここで哲学を学び、湛山にとって哲学思想の恩師、田中王堂と出会います。1907年哲学科の首席、同時に英文科を含む文学科の首席として卒業しました。大学卒業後、特待研究生として1年間宗教研究科で勉強した湛山は、1908年(24歳の時)に島村抱月の紹介で毎日新聞社(現在の毎日新聞社とは異なる)に記者として入社しましたが、1年足らずで退社。1909年12月からは1年間志願兵として東京麻布歩兵第3連隊に入隊し、営内生活では社会主義者と間違えられたこともありました。

1911年(27歳)東洋経済新報社に入社し、『東洋時論』の編集に携わりました。『東洋時論』で活躍した湛山の守備範囲は、『時論』の『東洋経済新報』への合併にともなって、急速に政治・経済の領域にも広がっていきました。第1次世界大戦参戦反対、ロシア革命とレーニン政権承認論、全植民地ー朝鮮・台湾・樺太などーの放棄論のほか、普選の要求など、徹底した民主主義・自由主義・平和主義においてきわだっていました。戦時下でも信条を守り、戦後、湛山は政界へ進出します。

1946年吉田内閣成立にともない湛山は大蔵大臣に就任します。この時は議席を持たない大臣でしたが、その後1947年2月の選挙で当選をはたしました。しかしその3ヵ月後、5月17日マッカーサー司令部の命令により公職を追放されました。湛山が責任者であった『東洋経済新報』が日本の帝国主義を擁護、推進したとういうものでした。湛山ばかりか、彼を知る多くの人々は驚き、これは冤罪であると陳情しましたが、この決定を動かすことはできませんでした。真の理由は、湛山が大蔵大臣として司令部の要求に盲従しなかったことにあるとみられています。

4年余の後1951年6月20日、公職追放解除が発表され、政界への再出馬を目指します。またドッジ・ラインを批判して『日本経済再建試案』をかかげ各地を講演してまわりました。第1次鳩山内閣成立にあたって、通産大臣に就任し、以後も、第3次内閣まで通産大臣を勤めます。鳩山首相引退の後、1956年12月23日に石橋内閣が誕生しました。石橋首相は総理就任以後精力的に各界各方面と接触し、全国的に一種のブームさえ起こりました。しかし、翌年1月25日に突然老人性急性肺炎で倒れてしまいました。岸信介外相を臨時首相代理に任命した後、その再起が待たれる中で主治医は最終的に2ヶ月の長期休養を要すと結論し、湛山首相は潔く2月23日付で総裁辞任・総辞職の道を選びました。わずか2ヶ月余でした。その後、体調が回復した後は、日中米ソ平和同盟を主張し、内外の反対を押し切って訪中2回、訪ソ1回を実現しました。

ページの先頭へ

copyright © The Ishibashi Tanzan Memorial Fundation All right reserved.