ヒストリー

History

ジャーナリスト、政治家、教育者として歩んだ石橋湛山の人生を数々の写真と名言とともに振り返ります。ここで紹介した湛山の名言は、「心に留めておきたい石橋湛山名語録集」(大原万平編、『週刊東洋経済』1984年9月29日号)より引用しました。

1884
〈 明治17年 〉

誕生

9月25日、東京市麻布区(現在の港区)に生まれた。

1895
〈 明治28年 〉 11歳

中学校に入学

山梨県立尋常中学校(のち県立一中)に入学。

1902
〈 明治35年 〉 18歳

大島正健校長との出会い

山梨県立第一中学校(現・甲府一校)を卒業。
卒業前の1年間、大島正健校長に出会って大きな影響を受ける。

山梨県立第一中学校 上級学年のころ

1903
〈 明治36年 〉 19歳

早稲田大学高等予科に入学

第一高等学校を受験するも不合格のため、早稲田大学高等予科に入学。

1904
〈 明治37年 〉 20歳

哲学の恩師との出会い

早稲田大学文学科(部)哲学科に入学。恩師、田中王堂のもとで学ぶ。

左:早稲田大学哲学科在学中の湛山(22歳ころ)
右:田中王堂

1907
〈 明治40年 〉 23歳

大学卒業

哲学科を首席で、および英文科を含む文学科の首席として卒業。特待研究生として1年間、宗教研究科で勉強する。

早稲田大学哲学科卒業のころ(23歳)

1908
〈 明治41年 〉 24歳

東京毎日新聞に入社

島村抱月の紹介で「東京毎日新聞」に記者として入社したが、1年足らずで退社。

1909
〈 明治42年 〉 25歳

1年志願兵として入隊

1年志願兵として東京麻布歩兵第3連隊に入隊。営内生活では社会主義者と間違えられたこともあった。

前列右端が湛山。口髭はこの時初めて蓄えたもの(25歳)

1911
〈 明治44年 〉 27歳

東洋経済新報社に入社

東洋経済新報社に入社し、『東洋時論』の編集に携わった。

東洋経済新報社に入社し間もないころ(28歳)

1912
〈 明治45年 〉 28歳

東洋経済新報の記者へ

『東洋時論』廃刊に伴い、『東洋経済新報』記者へ異動となり、政治・経済の領域に守備範囲が広がった。以後、第1次世界大戦参戦反対論、ロシア革命と革命政権承認論、全植民地(朝鮮・台湾・樺太など)の放棄論のほか、普通選挙の要求、女性の権利擁護など、民主主義・自由主義・平和主義の立場に立った際立った論陣を張った。この年、主幹だった三浦銕太郎の媒酌で岩井うめと結婚。

明治時代の意義詳細

「東洋時論」九月号より

愚かなるかな神宮建設の議詳細

「東洋時論」九月号、「東洋経済新報」八月十五日号 より

1915
〈 大正4年 〉 31歳

合名社員に選任される

東洋経済新報社の合名社員に選任される。この時の代表社員は三浦銕太郎。

聖凡の分るる此の一点詳細

「東洋経済新報」六月二十五日号 より

道徳・思想は時代と共に変る詳細

「東洋経済新報」八月十五日号より

1919
〈 大正8年 〉 35歳

普通選挙要求の副指揮者となる

普通選挙同盟の主宰により東京で普通選挙要求の集会(参加者5万人)とデモが行われ、副指揮者としてデモの先頭に立つ。

日本最初の普選要求デモ(大正8年3月1日)の実行委員会。テーブル向う側第1列左が湛山。

1921
〈 大正10年 〉 37歳

取締役に選任される

東洋経済新報社が株式会社に改組され、取締役に選任される。太平洋問題研究会や軍縮同志会の結成にも携わる。

一切の植民地放棄せよ詳細

「東洋経済新報」七月二十三日号 より

大日本主義より小日本主義詳細

「東洋経済新報」七月三十日・八月六日・八月十三日号 より

1924
〈 大正13年 〉 40歳

東洋経済新報社主幹に就任

東洋経済新報社第5代主幹に就任。のちに金解禁問題に発展する貨幣・金融論、頻発する小作争議を解決するための農業政策論などに、精力的に取り組んでいった。

1932
〈 昭和7年 〉 48歳

主幹就任以来取り組んでいた金解禁・再禁止論争が決着。

金解禁・再禁止論争が決着をみたころ(48歳)
畏怖と悦服詳細

「政界往来」三月号 より

1941
〈 昭和16年 〉 57歳

東洋経済新報社代表取締役社長に就任

東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任する。

記者の心得べきこと詳細

「大陸東洋経済」十一月十五日号より

1944
〈 昭和19年 〉 60歳

次男和彦戦死

次男和彦(海軍主計中尉)、クェゼリン島で戦死。享年26歳。

この戦争が一日も早く負けるように祈った詳細

1945
〈 昭和20年 〉 61歳

終戦

天皇の終戦詔書放送を聞く。東洋経済新報の製作疎開先の横手経済倶楽部会員有志を支局に集め、新事態について「大西洋憲章 ポツダム宣言に現れたる連合国対日方針と日本経済の見透し」と題して講演。

日本の真の発展のために詳細

日記より

更生日本の門出――前途洋々たり詳細

「東洋経済新報」八月二十五日号 より

1946
〈 昭和21年 〉 62歳

大蔵大臣に就任

5月、吉田内閣成立にともない大蔵大臣に就任するとともに、東洋経済新報社社長を辞任した。

日本経済再建の難問を解決すべく、心中決意を秘めて大蔵省に入る石橋湛山新大蔵相(61歳)

1947
〈 昭和22年 〉 63歳

GHQにより公職追放

1947年4月の総選挙で静岡2区から初当選をはたした。しかし5月にマッカーサー司令部の命令により公職追放となった。湛山が責任者だった『東洋経済新報』が日本の帝国主義を擁護、推進したとういうもので、湛山のみならず、彼を知る多くの人々は驚き、明らかに冤罪であると訴えたが、決定を覆すことはできなかった。追放の真の理由は、湛山が大蔵大臣としてGHQの要求に従わなかったためと見られている。

自由思想の要件詳細

「自由思想協会趣旨書および規約」より

1951
〈 昭和26年 〉 67歳

公職追放が解除される

6月、公職追放解除が発表され、4年ぶりに政治活動を再開した。ドッジ・ラインを批判して『日本経済再建試案』を掲げ、各地を講演して回った。

公職追放解除の指定をうけ、政界への再出馬をめざす湛山(66歳)

1954
〈 昭和29年 〉 70歳

通産大臣に就任

鳩山内閣で通産大臣に就任。その後第2次、第3次に渡って連続して務めることになる。

昭和29年12月10日成立した第一次鳩山一郎内閣。第4列に石橋湛山

1956
〈 昭和31年 〉 72歳

石橋内閣が誕生

鳩山首相引退の後、保守統一がなり、自由民主党総裁選で逆転勝利し、初代総裁となる。12月23日、首相となり、石橋内閣が誕生。首相として精力的に各界各方面と接触し、全国的に石橋ブームが起こった。

内閣総理大臣に就任したころ(72歳)

1957
〈 昭和32年 〉 73歳

わずか65日での退任

1月25日、過労のため急性肺炎となり、静養、岸信介外相を臨時首相代理に任命した。再起が待たれる中で主治医は最終的に2カ月の休養を要すと結論し、湛山は潔く2月23日付けで総裁辞任・総辞職の道を選び、在任わずか65日での退任となった。
その後、体調が回復した後は、日中米ソ平和同盟を主張し、内外の反対を押し切って訪中(2回)および訪ソを実現した。

1959
〈 昭和34年 〉 75歳

石橋=周共同声明

中国を訪問し、毛沢東・周恩来を初め同国首脳社と会談。石橋=周共同声明を発表し、日中両国の友好親善を約す。

周恩来総理との初めての会談
イデオロギーに左右されるな詳細

八月二十九日付「日本経済新聞」 より

1964
〈 昭和39年 〉 80歳

ソ連訪問

日ソ協会会長ネステロフ、ソ連対外友好連絡団体連合会会長ポポアの招請により訪ソする。

ネステロフ夫人(左より2人目)の案内で、モスクワの日本語学級をたずね、学生たちと歓談する。(80歳)
思想は常に修正すべきもの詳細

「週刊東洋経済」十月三十一日号 より

1966
〈 昭和41年 〉 82歳

入院

手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院、主治医は日野原重明が務めた。

事実に合わぬ理論は訂正詳細

「東洋経済新報」十一月十三日号 より

1968
〈 昭和43年 〉 84歳

立正大学学長を辞任

1952年から務めた立正大学学長を辞任、名誉学長に推される。

政治家の私利心詳細

「東洋経済新報」十月五日号 より

1972
〈 昭和47年 〉 88歳

全集完結

「石橋湛山全集」を完結する。

昭和47年9月に完結した「石橋湛山全集」全15巻
同情は我と彼を融合する詳細

「週刊東洋経済」十月十四日号 より

1973
〈 昭和48年 〉

生涯を終える

4月25日、脳梗塞のため88歳で死去。