石橋湛山新人賞NEWCOMER
第17回
受賞作
岩木雅宏氏
ネオリベラリズムの
戦間期日本における一起源
――自由通商協会の思想史――

受賞作
藤川剛司氏
民に代わり議するために
――中江兆民と代議制民主主義――

選考過程
石橋湛山記念財団では2008年度から、若手研究者を対象に、石橋湛山の思想(自由主義・民主主義・国際平和主義)に、直接・間接に関わる優秀な研究を表彰するとの趣旨で、「石橋湛山新人賞」を創設し、今年度で17回目を迎えました。
選考の対象とするのは①政治・経済・社会・文化・宗教等の人文・社会科学系領域、②原則として修士・博士課程の大学院生、③過去一年の間に『大学紀要』などの機関誌、学会誌等に発表された論文で、④全国の主要大学人文・社会科学系学部、学会等に推薦を依頼した結果、応募のあった論文の中から、選考委員会の協議によって決定します。
選考委員は昨年度までの伊藤元重、酒井啓子、藤原帰一の各氏が退任し、今年度からは井坂康志(ものつくり大学教養教育センター教授)、上田美和(共立女子大学国際学部教授)、鈴村裕輔(名城大学外国語学部教授)前田真一郎(九州大学大学院・経済学研究院教授)の4氏と石橋省三(当財団代表理事)の5名で選考にあたりました。
17回目を迎える今年度は、8大学大学院から8編の応募論文が寄せられました。年々応募論文の質も高くなってきており、応募大学院も広がるなど、人文・社会科学系の若手研究者を支援する賞として石橋湛山新人賞は定着してまいりました。3月6日に開催された選考委員会で、今年度の新人賞は、
岩木雅宏(いわき・まさひろ 京都大学大学院人間・情報学研究科博士課程)さんの「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源――自由通商協会の思想史――」(『経済学史研究』66巻1号掲載)
藤川剛司(ふじかわ・たけし 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程)さんの「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」(『国家学会雑誌』136巻11・12号掲載)の2作に授賞することとなりました。
受賞者の岩木さん、藤川さんには3月31日に東洋経済ビルまでお越し頂き、石橋代表理事から賞状、副賞等をお渡しいたしました。
選考委員講評
井坂康志教授
いずれも若き研究者の卓越した探求心と洞察を示すものであった。ともに歴史分析の精密さと同時に、今日的課題への洞察を伴った論述は、本賞の精神にふさわしいものである。今後もアカデミズムにおける知の深耕とともに、社会のアクチュアルな諸課題に知的照明を当て続けていただきたく思う。
岩木雅宏氏「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源――自由通商協会の思想史――」
「自由通商協会」を検討対象とする本論文は、戦前日本におけるネオリベラリズムの萌芽と展開過程を、自由通商協会の生成、発展、衰退という歴史過程の中でダイナミックに跡付けている。
特に注目されるのは、自由通商協会という一組織の実態把握にとどまらず、そこに結集した経済学者、財界人、ジャーナリストらの言動とその変容に光を当てることで、戦間期における日本的ネオリベラリズムの起源に迫ろうとする点である。市場原理主義や小さな政府といった後年のネオリベラリズム像とは異なり、当初は国際的な自由交易を通じて平和を志向し、むしろ政府や国際機関の積極的役割を肯定する理念に立脚していたことが本論によって明確に示されている。
こうした思想的な重層性は、石橋湛山や芦田均らの参加によっても体現されているが、その中で思想が交錯し形成される動態を精緻に描き出している。その際、際立って優れているのは、「人のつながり」、すなわちネットワークに着目したである。経済団体や政策提言組織の歴史を語る際、本論文は個々の人物の動きや発言を通して、枠組みと機微の実相を解き明かしている。ややもすれば視座の不安定が懸念されるが、本論はカメラワークが実に安定しており、時勢の動きが鮮明にとらえられている。
文献の精査に基づく検証の丹念さも光る。資料の掘り起こしと綿密な分析は、歴史叙述にとどまらず、現代社会の経済的自由や国際関係の課題にも一定の示唆を与えるものとなっている。
藤川剛司氏「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」
冒頭部分の引き込みの巧みさ、兆民が3等車の乗客に見出した一つの風景から、彼が見出した時代の中心点を引き出す記述は見事である。民主主義の言論が一部の権力者の手から徐々に一般市民の手に移行していったプロセスを、兆民の思想の変遷と新聞論説を丹念に重ね合わせ跡付けている。
本論は、兆民の代議制民主主義に対する思考の核を、彼が唱えた「勇民」概念に見出している。平民と士族という二分法の中で、政治的役割を担う市民層として「勇民」の必要性を唱え、富裕者に限定された参政権を批判して、普通選挙を志向した兆民の立場は、従来の自由民権論を超えて代議制そのものの制度設計に対する明確な構想を孕んでいた。
兆民が自発的結社の設立を目指し、第一議会で党議拘束の重要性を唱えた事実は、議会制民主主義の運用に関する現代的課題と響き合う。福沢諭吉や徳富蘇峰との比較の中で兆民の自由主義がどう異なっていたかを分析することで、その固有性が際立っている。
評者の受け止め方の問題も多分にあろうが、読み進めるうちに、自然と現代の錯雑した政治と言論の状況が脳裏に浮かんできた。インターネットにおける世論形成、SNSを通じた政治的言説、特権階級への富と権力の集中――これらはすべて、兆民がその時代に予見し、鋭く批評したテーマと深部において共鳴しているように感じた。本論が兆民の思考の核心にあるラディカリズムを丹念に考証することによって、現代の民主主義課題に対する示唆を提供している点は極めて意義深い。
いずれも、アカデミズムに閉塞することなく、現代の読者にも知的刺激、歴史的想像力を与えてくれるとともに、ある種のリアルな「残響」として現代に生きる私たちに訴えるものを感じさせてくれる。
上田美和教授
第17回石橋湛山新人賞は、藤川剛司氏の「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」と岩木雅宏氏の「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源――自由通商協会の思想史――」に決まった。今年の新人賞候補作はいずれも好論文であり、一作に絞るのは容易ではなかった。授賞2作という結果になったのはそのためである。
藤川氏の「民に代わり議するために」は、近年活況を呈している中江兆民研究のなかにありつつ、これまでの研究史をふまえ、なおかつ兆民の代議制論の再検討によってそれらを乗り越えようとする意欲作である。藤川氏が重視したのは明治20年代であり、『民約訳解』の新たな読み方を提起した。視角の設定が明確であり、堅実な研究方法によって実証しようとした、政治思想史の好著である。とりわけ、第1章第3節の第一議会期、兆民が党議拘束を支持した叙述は示唆に富んでいる。兆民にとって予算案が『三酔人経綸問答』における
「恩賜の民権」が「進取の民権」に転換するためのテコを意味した、という藤川氏の指摘には、なるほどと思わされた。第2章で展開される兆民の 創造的「誤読」 という解釈はスリリングである。藤川氏は、兆民理解において「ルソー思想」なるものをアプリオリに適用することを戒め、兆民が『民約訳解』を民による代議制、つまりrepresentative governmentを超えたrepresentative democracy
の構想として描いたことを説得的に論じた。隙のない、地に足がついた叙述が印象的であり、学ぶところの多い論考であった。だからこその注文であるが、創造的誤読の解釈部分には、さらなる紙幅と論証が望まれるのではないか。藤川氏が、従来の 挫折した思想家 としての兆民像を乗り越えようと企図するのであれば、なおのこと、今後の研究に期待したい。
岩木氏の「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源」はネオリベラリズムの一起源を戦間期の自由通商協会にたどり、その特徴をダイナミックに捉えようとする経済思想史の好著である。自由通商協会は自由貿易主義を掲げ、国際的なネオリベラル・ネットワークの一端を担っており、ジュネーヴ学派と類似した思想変遷を辿った。とりわけ評者にとって興味深いのは、自由通商協会の末期の姿である。彼らは、大日本帝国の拡張を前提とした立論、すなわち、日本の勢力拡大に反対するのではなく、むしろ領土拡張による自由通商の実現を構想していた。岩木氏は、ネオリベラリズムの思想は戦間期日本においてすでに展開されており、北大西洋地域だけのものではないと結論する。評者の疑問点は、「新自由主義」の定義とネオリベラリズムの関係である。たしかに岩木氏は方法論において、思想の定義が先ではなく、ネットワークの特定が先であるとして意図的に自由通商協会を研究対象に選びとっている。しかし、他地域との比較をするのであれば、序論の問題設定にはより慎重であるべきではなかったか。日本の「新自由主義」が、「ニューリベラリズム」なのか「ネオリベラリズム」なのかは重要な論点であり、従来、自由通商協会をネオリベラリズムの系譜と捉える人は少ない。岩木氏が、 自由通商協会はネオリベラリズムである という結論に至ったのであれば、より説得的な根拠を評者は読みたかった。それを措いても、石橋湛山や芦田均の場合など、今後の展開への期待が大きく、新人賞にふさわしい論考である。
今回の応募作は力作揃いであったが、「石橋湛山」を冠する新人賞なので、選考においてはやはり石橋湛山的なテーマを意識した。新人賞に求められる論文の資質とは何だろうか。これまでの研究成果をきちんと消化した手堅さが欠かせないのはもちろんだが、先行研究の再編・再生産では学問の先細りである。定説を打破する気概と、それを実証する説得力の両立が新人賞にはふさわしい。そうした作品を見抜けるように、評者自身も研鑽を積んでいきたい。
前田真一郎教授
優れた受賞候補作品が並ぶなかにおいて、以下2作品を石橋湛山新人賞受賞作にふさわしいと判断した。
藤川剛司「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」
岩木雅宏「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源――自由通商協会の思想史――」
今回の受賞作品候補はいずれも独創的な視点を持ち、多様な視点から論述されていた。そのなかで、特にこの2作品は、テーマ設定が賞にふさわしく、かつ論文としての説得性も高いと感じた。
まず藤川剛司氏の「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」についてである。中江兆民についての研究は、国際的にも広がりを見せながら盛んに行われている。そのなかで「中江兆民がどのようにして自らの思想を形成したか」について、これまでの先行研究も踏まえ、かつ最新の動向を詳細に検討している。「本稿は中江兆民の思想の中でも特に代議制論を主題とし、その射程を探る」とし、代議制論を再構築するという課題を設定している。同時に「兆民が三等車の乗客に在野の議員を見出した時、果たして何を見ていたのか。それが本稿の主題である」、「本稿は、明治二〇年代を最初から問題として代議制論を再構築することで、逆にその原理論とされてきた『民約訳解』の新たな読み方を示す」としている。多くの着眼点を持ち、様々な形で論証しており、大変意欲的な研究である。特徴としては、中江兆民の代議制論について、平民と士族を分けたうえで政治思想を富裕者にのみ認めることを否定し普通選挙の実現を志向した点を見出している。その一方で、私の知識不足もあるためか、様々な形で論証を試みているがそれが本当に論証できているのかと疑問を持つこともあった。自らの研究課題についても認識しており、今後さらなる研究の発展を期待したい。
次に岩木雅宏氏の「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源――自由通商協会の思想史――」は、先行研究をしっかり押さえ、課題の設定が明確である。例えば「『ネオリベラリズムは一体どこからやって来たのか』という基本的な問いの答えは未だに明瞭ではなく、各国各地域での知的起源・展開を精査することで再検討される必要がある」とし、戦間期におけるネオリベラリズムの起源を明らかにしている。また分析の方法、アプローチが明快である。「本稿では、近年のネオリベラリズム研究で盛んに用いられている、集団的に思想を形成する社会的ネットワークに着目するアプローチを採用する。このアプローチでは、ネオリベラリズムの思想を先に定義し、その定義に基づいて対象を分析するのではなく、その形成に意識的に関与したネットワークを先に特定し、その後に主張を分析するという手続きが用いられる」とし、石橋湛山をはじめとした知識人ネットワークを詳細に分析し、思想史のなかの位置づけを明らかにしている。加えて、経済情勢を踏まえながら、論旨を形成している点が良いと感じた。例えば「協会員にとって、経済とは本質的にグローバルな領域で実現されることが自然なものであり、国際分業の下になされる相互依存的な自由通商体制こそが、諸国民の福利を増進するための絶対的条件であった」とし、ネオリベラリズムの思想形成は、戦間期から既に国際的な性格を持っていたことを明らかにしている。一方で、今回は検討できなかった「自由通商協会のネオリベラリズムが戦後どのように継承されたのかという問題」について今後の研究が望まれる。
鈴村裕輔教授
藤川剛司氏「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」
近年、思想史、政治史の分野では中江兆民についての研究が活況を呈しています。そして、この潮流は、大学院博士課程在籍者や博士号を取得してから間もない若手研究者が中心となって牽引しています。
例えば、大塚淳氏(立教大学)は「「三酔人」の「進化論」――中江兆民と一九世紀の「進化論」思想。」(『政治思想研究』第22号、2022年)や「中江兆民のショーペンハウアー『道徳学大原論』に見る中江兆民の「道徳」論の変化について」(『立教大学大学院法学研究』第53号、2024年)などの論文により、中江兆民の進化論や道徳論に対する理解について詳細な検討を加えています。また、田中豊氏(関西学院大学)は博士論文をもとに単著書『儒学者兆民「東洋のルソー」再考』(創元社、2024年)を上梓し、ルソーの著書Du Contrat Social ou Principes du droit politiqueを『民約訳解』として翻訳したことで「東洋のルソー」の綽名が与えられ、そしてその呼び名が人口に膾炙している中江兆民が、決して西洋的な知識のみを追い求めた人物ではなく、むしろ漢文によって訳したことが示すように、東洋の伝統的な知の体系、すなわち儒学を背景とする知識人であったことを実証的に検討しています。あるいは、エディ・デュフェルモン氏(ボルドー・モンテーニュ大学)は論文「「新カント主義の先駆者としての中江兆民」(『日本漢文学研究』第16号、2021年)の中で、中江兆民がルソーを孟子の思想によって理解したという通説に対し、カント哲学を手がかりに自由の概念を理解していたことを明らかにしており、中江兆民についての研究が国際的な広がりを見せていることを示しています。
こうした展開に掉さすのが藤川剛司氏の論文「民に代わり議するために――中江兆民と代議制民主主義――」です。すなわち、藤川氏はこれまでの中江兆民研究の成果を丹念に渉猟するとともに、最新の動向を入念に検討することで、中江兆民がいかにして自らの思想を形成したかを検討します。また、渡仏によって得られたルソーをはじめとする西洋の政治思想への知見のみならず、出身である土佐藩の藩校文武館で学び始めて以来の儒学や日本の思想に対する豊かな理解をもとに自らの思想を築き上げたこと、さらに辛辣さと諧謔さとを兼ね備えた言論活動や1889年の第1回衆議院議員総選挙に当選して政治家として国政に臨んだ際の信条や行動などを説得的に描き出しています。研究手法の確かさとともに、よりよい中江兆民の理解を実現しようとする挑戦的な研究目的、そして得られた結論の納得性の高さは、第17回石橋湛山新人賞の授賞作にふさわしいものです。
今後、藤川氏は本論文を含む論考により博士論文を完成させ、その成果を書籍としてまとめられることでしょう。その際にあえて言うなら、実際に論文を読み進める読者を絶えず念頭に置き、より明晰で達意の文章の執筆に注意すると、議論の緻密さという本論文の大きな特長がより一層鮮明になることでしょう。藤川剛司氏のこれからのさらなる活躍を期待します。
岩木雅宏氏「ネオリベラリズムの戦間期日本における一起源――自由通商協会の思想史――」
本論文は、「新自由主義」という訳語が定着している“neoliberalism”を取り上げ、初期のネオリベラリズムと戦間期の日本の関係を明らかにすることを目指すものです。その際に着目されたのが、1928年1月に創設された自由通商協会です。
自由通商協会は、後に第一次世界大戦と呼ばれることになる大戦争(the Great War)の終結後、一方では国際協調が戦後の新たな枠組みとなり、他方では民族主義や国家主義が新たな潮流として台頭するという国際社会の動向と、人口の増加や総力戦の遂行に必要な資源獲得といった日本国内の問題に基づき、関税の引き下げによる国際貿易の促進を行うことを目的とする組織でした。国際分業の下で相互に依存する自由通商体制の確立と貿易立国化による日本の発展の2点が共通の理念ではあったものの、その理念を実現するための方法は具体的に定められていなかったこともあり、自由通商協会には一定の保護政策を認める者から徹底した自由主義貿易の推進者まで、多様な背景を持つ者が会員として参加していました。協会員の顔ぶれの幅広さは、平生釟三郎、村田省蔵、高野岩三郎、大内兵衛、笠信太郎、石橋湛山、芦田均といった財界人、経済学者、ジャーナリスト、官僚などの名前を見るだけでも明らかです。
また、2024年には瀧口剛氏(大阪大学)が『「自由通商運動」とその時代』(大阪大学出版会)を刊行し、東京とともに自由通商協会の中心地であった大阪に着目し、大阪から見た戦間期の日本の政治的、経済的な動きを克明に描き出しています。
このような特徴を持つ自由通商協会について、協会の活動が当時の国際政治や国際経済の動向とともに、協会員一人ひとりが持っていた人的な繋がりの集積が自由通商体制の促進という一つの思想的な潮流となって戦間期の日本の国際貿易論の一方の主たる意見を形成するに至った状況を丁寧に解き明かすのは、本論文の大きな魅力です。しかも、自由通商協会の活動が日本国内のみで完結するのではなく、むしろ初期の協会が貿易障壁のない世界経済という理念をジュネーヴ学派と共有するとともに、その影響を受けつつ自由通商の実現と経済的な自国中心主義の抑制という議論を積極的に行うなど、海外の議論と深く結びついていることを強調する点も、国際連盟の常任理事国になるなど、大戦争後に国際的地位が大きく向上した日本の立場を考える上で有益な視座といえます。
そして、こうした戦間期の日本が抱えていた課題の解決のために国際的な議論との連携が深められたことを明らかにするだけでなく、ネオリベラリズムの起源と発展が北大西洋地域に限定されず、日本においてもこれらの地域と同様にネオリベラリズムと言いうる状況が起きていたことを示唆するのは、これまでの研究をさらに進めるものです。あるいは、検討の対象とした人物が限定されていたことが論文の限界であるという筆者の説明も、考察する人物を選択的に取り上げたことでかえって議論の筋道が明快になり、構成力の高い論文になることを可能にするという結果をもたらしているという点で、肯定的に捉えることができます。
ただし、本文の注で言及されているように、“neoliberalism”と“new liberalism”がともに「新自由主義」と訳される日本の現状を考えると、自由通商協会の会員が著者の捉えるように “ neoliberalism”として「新自由主義」を理解していたのか、あるいは“new liberalism”の概念を「新自由主義」とみなしていたのかという点にはさらなる検討が必要となります。また、一つの言葉や概念について、論者の理解や用法を同時代的ないし通時的に考察するという思想史的な研究手法に即すと、本論文にはさらに考察を進める余地があると言えます。今後、本論文で用いられた手法と明らかにされた成果とにより、岩木雅宏氏の一層の研究の発展を期待します。
今回受賞された藤川剛司氏と岩木雅宏氏の論文はもとより、応募のあった各編は、幅広い分野から筆者の真摯な問題意識と誠実な研究の積み重ねによる意義ある成果でした。こうした論文が寄せられることは、石橋湛山が日本の針路から文芸まで様々な問題を独自の視点で論じ続けたという事実と通底します。これから、石橋湛山新人賞が、これからの日本の研究活動を担う有為な皆さんのために広く門戸を開き、多様な分野の論文が集まる場であることを願います。
受賞のことば
藤川剛司氏
このたびは近代日本を代表する自由主義者である石橋湛山の名前を冠した、名誉ある賞を頂き誠に有り難く思います。記念財団の皆様、審査の労をとってくださった審査委員の先生方、推薦してくださった先生に心より感謝申し上げます。ありがとうございます。この受賞の恩を帰するべき人は多く、この短い紙幅で十全に感謝を表することはできませんが、まず何より学部時代から指導を引き受けて頂いている苅部直先生に、長らくお世話になっている高山大毅先生に、最後に対話の中で本論文の問題意識を作り上げた大学院同期の皆様に御礼申し上げます。
本論文は明治の思想家、中江兆民が議会の開設に向けて展開した思想的模索の過程を扱ったものです。私は中江兆民を、フランス由来の理想を抱きながら政治の現実の前に挫折した思想家ではなく、政治社会と向き合いながら自己の理想を組み上げ作り直した思想家として描くことを目標としました。果たしてその目標が達成されたかは心許ないのですが、当時の政治状況を前提にしてこそ現れる、兆民の価値ある「政治思想」の一端は表現することができたと自負しています。
およそ模索のなかで思想を組み立てることは、観察者としてではなく、政治家としても生きる思想家においては不可欠の要素なのでしょう。兆民も湛山も実際に議会を経験した思想家でした。そして湛山もまた国民主権を主張しながらも、安易な直接民主主義による代議制の否定論を警戒し、代議制の価値を信じ続けました(「代議政治の論理」)。私には湛山思想を詳しく検討する用意がありません。しかし中学生であった湛山が『一年有半』に触れて、「気骨のある、面白い、当代には得難い人物」と評していること(「湛山随筆」)は、兆民による「無血虫」への批判と呼応していることは指摘できます。
今後は近代日本の代議制論についての研究を更に進めていくことを目標にしています。「石橋湛山」の名前を心に刻んで、いつか湛山の時代を扱えるように、日々精進して参ります。
岩木雅宏氏
この度は、拙稿を名誉ある石橋湛山新人賞に選んでいただき、誠にありがとうございます。大変貴重なご講評をいただきました審査員の先生方にも、厚く御礼申し上げます。今回の受賞を励みとし、更なる研究に精進してまいります。
本稿は、戦間期日本におけるネオリベラリズム(邦語では新自由主義)の形成を論じたものです。ネオリベラリズムは広く関心を集めてきた思想ですが、通俗的には西洋で形成され、1980年代頃から世界的に普及したとされています。それに対して本稿の主張は、その集団的な形成が、戦間期日本においても確認できるというものです。本稿では、西洋のネオリベラルと接点を持っていた「自由通商協会」に着目し、その主張に西洋ネオリベラルとの類似性と、当時の日本の状況を反映した独自性とが確認できることを指摘しました。
思想史研究には、現代社会の諸条件を明らかにする上で、それ固有の役割があると私は信じております。私たちの時代を理解する上で、本稿が少しでも貢献したと感じていただけたのであれば、望外の喜びです。
今回の受賞は一重に、日々の研究を支えていただきました皆様のおかげかと存じます。特に京都大学の大黒弘慈先生、柴山桂太先生には、学部生の頃から大変お世話になっております。いつも親身になってご指導いただいておりますこと、心より感謝申し上げます。また、ここでお一人ずつ名前を挙げることこそ叶いませんが、研究室や学会等を通じてお世話になりました多くの方々にも、様々な形で力を貸していただきましたこと、深く感謝申し上げます。
最後に、これまで支えてきてくれた家族に感謝を述べたいと存じます。子どもの頃から何事にも没頭しがちな私を見守ってきてくれた両親、私の研究に振り回され続けてきたにもかかわらず、いつも寄り添ってくれる妻、そして今も退屈そうに私の筆が止まるのを待っている愛犬にも、心からの感謝を申し上げます。