石橋湛山賞

prize

第30回

 

受賞作

深津 真澄著

近代日本の分岐点―日露戦争から満州事変前夜まで〈 ロゴス 2008年6月刊 〉

受賞者略歴

深津 真澄 (ふかつますみ) 氏

1938 (昭和13) 年生まれ。61年東京大学法学部卒業、朝日新聞社入社。 政治部、『朝日ジャーナル』副編集長をへて、83年論説委員。 95年退社、フリー・ジャーナリストとして活動。

著書/共著
授賞作が初著書で、ほか 『週刊金曜日』 などに執筆。

受賞の挨拶

不世出の大ジャーナリストを星にして ――深津 真澄
このたびは全く思いもかけず、「石橋湛山賞」という伝統と格式ある賞を賜り、まことにありがとうございます。第30回という節目の時ですが、これまで29回の受賞者の皆さんに比べ、私のような、全く無名で他に著作の実績もない白髪頭のロートル記者が、光栄に浴してよいものかどうか、いささか落ち着かない気分です。
昭和59年9月(17日付)、朝日新聞のコラム「今日の問題」に、生誕百年にあたる石橋湛山のことを書きました。実はお恥ずかしいかぎり、私はこの時まで、湛山が大正時代から一貫して自由主義の筆を貫いた、不世出の大ジャーナリストであった事実を知らなかったのです。
生誕百年に合わせて出版された岩波文庫の『石橋湛山評論集』(松尾尊兊編)と、増田弘先生編の『小日本主義――石橋湛山外交論集』(草思社)を拝見して、私はもうびっくり仰天しました。中国に21カ条要求を押しつけた時は、「帝国百年の禍根を残す」と断言しておりますし、ワシントン会議の時には、朝鮮・樺太・台湾も棄てろ、支那やシベリアに対する干渉はもちろん止めろと、歯に衣を着せぬ明快な論陣を張っていたからです。
戦前の日本に、これだけはっきりと国策の誤りを正面から指摘した人がいた、そのことに驚きと誇りを感じた私は、ひそかに湛山を導きの星にして朝日の社説を書いていこう、と心に決めました。その決意が実ったかどうかは、また別の問題ですが。
浅学非才、実績もゼロの私ですが、石橋湛山という大ジャーナリストを敬慕することにおいては、人後に落ちないつもりです。その偉大な人の名前を冠した賞をいただけるとは、まことに光栄であり、この嬉しさは何に例えたらよいか分かりません。

深津 真澄氏・受賞記念講演

「『帝国』近代化の隘路――日本・ソ連・中国の経験」から
『近代日本の分岐点――日露戦争から満州事変前夜まで』という本で、思いがけず第30回の石橋湛山賞という名誉ある賞をちょうだいしました深津真澄と申します。私は長年、朝日新聞の記者を務め、右から左に消えていく記事はたくさん書いてまいりましたが、ほかに著作の実績はありません。また、出版にあたったロゴス社も零細企業でありまして、私の本は大手の流通ルートに乗ることもなく、広告もほとんど出せませんでした。ですから授賞の知らせをいただいたときには、よくまあ、審査員の皆さんの目に止まったものだとびっくりしました。もし私がお金持ちだったら、審査員の皆さんにまず賞を差し上げたいくらい、というのが率直な感想であります(笑)。

1、民族問題に残る「帝国」主義
私の本の内容は、明治の末期から昭和の初めまでの、80年から100年あまり前の歴史です。その内容を一口で言うなら、「戦前の日本は、日露戦争によって植民地を持ったために道を間違え、国家を破滅させた」ということになります。現在の世界に植民地はほとんど見当たりません。しかし、事実上の植民地を抱え、民族問題の噴出に苦しんでいる中国や旧ソ連諸国の例もあります。今日は日本、ソ連、中国を並べて、あえて歴史の教訓と今なお参考にできる意味を探ってみたいと思います。
世界的に見ると、第1次世界大戦によって、ロシア、ドイツ、オーストリア、トルコといった大帝国が軒並みに崩壊して、帝国主義の時代から民族自決の時代に移りますが、英国、フランス、日本などの植民地はそのままでした。しかし、第2次大戦後の民族解放の嵐によって、アジア、アフリカの各地で、次々に独立国家が誕生して、植民地というものはほぼ清算されたわけです。
では、民族問題は解消したかといえば、そうは言えないと思います。ソ連、中国という2大社会主義国が広大な領土の中に多数の異民族を抱えながら、共産党の1党支配という鉄の統制で問題を抑え込んでいたわけです。
ソ連の場合は、85年にゴルバチョフが共産党書記長に就任し、ペレストロイカを始めたことによって、統制が緩み、それとともに噴出したのが、リトアニアを初めとするバルト3国の独立運動でした。結局、ソ連は1991年に共産党が消滅し、独立国家共同体(CIS)と銘打って、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンといった民族単位の国家が、それぞれ対等の立場で連邦に参加することで一応けりをつけました。
実は、ペレストロイカが始まって間もなく、86~87年くらいだと思いますが、フランスのエレーヌ=カレール・ダンコースという社会学者が「ソ連は民族問題で崩壊する」と予測しました。当時、朝日新聞の一論説委員として、ペレストロイカの進行状況を逐一注目していた私は、あの強大な社会主義体制が崩壊するなんてありえないことだと一笑に付していました。しかし、事態はダンコースの予言どおりに進行したわけで、今になっては不明を恥じるばかりですが、民族感情というものは、イデオロギーの束縛なんか問題にしないほど、強いものだと感じ入りました。
ただし最近は、プーチンの「強いロシア」復活により、ロシアとグルジアの武力衝突、ロシアとウクライナの対立など紛争が絶えません。
中国については、去年(2008年)の3月、チベットの中心都市ラサで大規模な暴動が起き、さらに隣接する青海省や四川省でも、チベット族と警察の衝突が起きました。このため北京オリンピックの聖火リレーは、世界的に厳戒態勢の中で行われましたね。日本では善光寺の中でもお坊さんの間で対立が起きたり、大騒ぎになりました。それはともかくとしまして、さらに今年(2009年)7月には、新疆の中心地ウルムチで、ウイグル族と漢族の衝突が相次いだことは、皆さんの記憶に新しいことだと思います。
中国の民族問題については後ほどまた触れたいと思いますが、民族や国民国家の枠を越える統合を目指したはずのEU(欧州連合)でも、民族問題は残っています。率直に言って、人類はまだ民族問題を解決する妙案を持ち合わせていないというのが実態だろうと思います。

2、近代化」が呼び起こす民主化原動力
……中略……

3、政治家四人と湛山を対照化した意味
私の本では、日露戦争を外交面で取り仕切った小村寿太郎、悪名高い21カ条要求を中国に突きつけた加藤高明、初めて本格的な政党内閣をつくった原敬、張作霖爆殺事件で昭和天皇に叱責され辞任した田中義一、という4人の政治家の中に、場違いなようですが、東洋経済新報社の社説ライターだった石橋湛山を登場させました。
そのねらいは、植民地の獲得と維持にこだわり、亡国の遠因をつくった政治家たちに対して、早くから植民地保有の愚かしさを説き、「朝鮮、台湾、樺太も棄てる覚悟をしろ、支那やシベリアに対する干渉は勿論やめろ」と主張していた、石橋の透徹した歴史観を対比させて、読者の皆さんに正しい道はどこにあったか考えてもらうのが、もちろん第一のねらいです。 実はもう一つねらいがありました。それは、石橋の鋭い大日本主義批判が、当時の現実政治の流れの中で、どの程度影響力を持ちえたのか測定してみたいということでした。
当時の東洋経済主幹だった三浦銕太郎(みうらてつたろう)は「太平洋問題研究会」という委員会をつくり、政友会の代議士だった鈴木梅四郎を座長にして、研究会報告を和文と英文の両方でつくり、各方面に送ることにしました。英文版は外国にも送るということですね。ところが、座長の鈴木梅四郎はその勧告を決定するとき、「まあ、どうせお題目だから」と討議を途中で打ち切ってしまったそうです。
やはり湛山の主張は、机上の空論として政界では相手にされなかったと言うほかないのですが、その石橋の思想の頂きは、世間一般の水準からかけ離れたはるかな高みにあって、歴史の行く末をじっと見通していたと評価すべきだと思います。
……(中略)……以下、主要項目では、

4、意外に近い原敬と湛山の立ち位置

5、日本は民族独立の嵐に対処できたか

6、尊重されない中国少数民族の自治権

7、湛山が説く民族自決原則、新政権への期待
……(中略)……
これは私の推測ですが、鳩山氏が温めてきた外交構想には、ブレインの1人といわれる寺島実郎・日本総合研究所会長のアイデアが生かされていると思います。寺島さんは第15回の石橋湛山賞の受賞者です。石橋湛山の自由主義・民主主義・国際平和主義の理想は、今や現実政治を動かしつつあるとも言えます。 もちろん、東アジア共同体のような大きな課題が一足飛びに実現するとは思いません。しかし、アジアを代表する日本と中国の首脳が悩みも希望も率直に話し合える関係を築くことは、日中双方の国民にとっても、世界のためにも、極めて大きな利益になると私は確信しています。
私の雑駁なお話は、以上でおしまいです。ありがとうございました。
「自由思想」116号(2009年11月刊)に全文を掲載しています。