石橋湛山賞

prize

第31回

 

受賞作

若田部 昌澄著

危機の経済政策―なぜ起きたのか、何を学ぶのか〈 日本評論社 2009年8月刊 〉

受賞者略歴

若田部 昌澄 (わかたべまさずみ) 氏

1965(昭和39)年、神奈川県生まれ。87年早稲田大学政治経済学部卒業、 同大学院経済研究科、トロント大学経済学大学院博士課程修了。 早稲田大学助手、助教授をへて、2005年教授。専攻は経済学史。

著書
『経済学者たちの闘い』(東洋経済新報社、03年)
『昭和恐慌の研究』(共著、東洋経済新報社、04年、日経経済図書文化賞)
『改革の経済学』(ダイヤモンド社、05年)
『経済政策の形成』(共著、ナカニシ出版、07年)
『日本の危機管理能力』(共著、PHP研究所、09年)
『伝説の教授に学べ!――本当の経済学がわかる本』(共著、東洋経済新報社、10年)
『「日銀デフレ」大不況』(共著、講談社、10年)
他 多数

受賞の挨拶

経済理論・政策・現実――歴史に学ばない危惧――若田部 昌澄:
この度は栄えある「石橋湛山賞」をいただきまして、ありがとうございます。石橋湛山は、近代日本あるいは現代にまで広げても、最もすぐれた経済学者であると断言してよいすばらしい人だと、私は思っていますので、この席にいること自体が大変光栄であります。
いただいた講評で、少しでも読みやすくなっているとすれば、『経済セミナー』という学生向けの雑誌で連載したことが大きいと思います。それでもうまく伝わらないとすれば、私の力不足であり、我ながら無謀な内容だったためだと思います。大不況、大インフレ、大停滞、そして今の危機と四つの危機を、経済理論・経済思想、経済政策、現実の経済という三つの視点から考えて見た訳で、一つ一つの項目自体で一冊以上の本が書けるようなことを、早駆けでやってしまった。
ただこういうことをやりたい気持ちがあったのも事実です。叶先生おっしゃったとおり、今日でも基本的なところを学んでいない危惧がある。「危機の二〇年」あるいは「失われた二〇年」が、三〇年になってもおかしくないし、場合によっては日本そのものが失われてしまうのではないかと。現段階で書きたいと思ったことの結果がこの本であると、お考えいただければと思います。
感謝しなければいけない多くの方々がおります。まず日本評論社の方々。連載中は月末約一〇日間で書き、締め切りは守ったつもりですが、いつも枚数が増えていってそれでも書き足りない感じでした。とくに担当編集者の杉本麻緖さんに感謝いたします。
また東洋経済新報社出版局の中山英喜さん。「昭和恐慌研究会」という経済学者のネットワークを作っていただき、それに加わったことで私の学問が大きく変わりました。
そして自由に研究活動をさせて貰っている早稲田大学政治経済学術院の先生方。本日は前学術院長・飯島昇蔵先生にご出席いただいていますが、まさに政治と経済の接点で学びうることが、本書にも大きく影響しております。
そして最後に私の父・若田部聖悟がこの席におりますが、父は早稲田大学政治経済学部と経済研究科修士課程を修了し経済学史が専攻でした。私も何の因果か経済学史を学んでおり、石橋湛山という名前を初めて聞いたのも、おそらく父からだったと思います。
皆様の助けを借りながら、これから先も言論活動に邁進したと思います。

若田部 昌澄氏・受賞記念講演

「危機の経済政策――湛山ならばどう立ち向かうか」から

1、実験できないかぎり、過去に学ぶしかない
早速お話をさせていただきます。経済倶楽部でお話をさせていただくのは、実はこれは3回目になりますが、私が学者ではなくて一般の方々を対象にしてお話をするのは、この経済倶楽部が初めてでした。なので、経済倶楽部には私も非常に感謝しております。本日このような形でまたお話しさせていただくことに、改めて深く感謝したいと思います。
本日の話は「危機の経済政策――湛山ならばどう立ち向かうか」としましたが、私の本のテーマを大ざっぱにいうと、経済にはいろいろ危機が起きてきた、そこから学ぶことが非常に大事だということです。皆さんご存じのとおり、経済学とか社会科学は実験ができません。実験経済学とかはありますが、自然科学者が実験室の中で行うような「統御された実験」ができません。例えば今回の経済危機でいうと、経済危機が起きていない世界と経済危機が起きた世界が同時並行的にあって、その両方を比べるということはできません。われわれが知っているのは、すでに経済危機が起きてしまった世界である訳です。その意味で、私たちが何か学ぼうとしたら、必ず過去の出来事、歴史に立ち戻らなければいけない。私の本でやろうとしたのは、その歴史からどうやって学べばいいのか、経済危機によって経済学とか経済政策はどう変わってきたかということであり、その中で非常に重要であると、私が考えていることを述べたものです。
この本はある意味で非常に無謀な本で、私自身、そのことをよく承知しています。大不況の頃から今日の経済危機に至るまでの非常に長いスパンにおける危機のエピソードを、経済学の歴史にのおいて早駆けで見ていこうということです。具体的には、
Ⅰ、大不況(1930年代)、
Ⅱ、大インフレ(1970年代)、
Ⅲ、大停滞(1990年代日本)、
Ⅳ、現下の経済危機(2007年~)
ですが、その一つ一つの対象・テーマについては、おそらく何十冊も書かなければならないところを、一冊の本でまとめてしまったのです。
どうしてこういう本を書きたかったというと、現下の経済危機があって、この危機を乗り越えないと、失われた20年どころか30年になり、そのうちに日本そのものが失われていくのではないという危機感があったからです。それで今の段階でこういう本を出したいと思ったのです。
本日は、現代の危機について石橋湛山を通じてお話ししようと思います。一つは「石橋湛山は何者か?」であり、二つは「湛山ならば危機にどう立ち向かうか?」です。石橋は昭和恐慌、あるいはその前1920年代の日本の経済の停滞に直面した訳ですが、それと現下の、90年代の停滞からリーマンショック以降の経済危機が、かなりダブって見える、そういう話をしたいと思います。

2、「異端の言説」の背骨としての経済学
……中略……

3、石橋が実践的に学んだマクロ経済学事始め
次ぎに石橋湛山が直面したのが「大戦間期の経済学」です。第一次大戦と第二次大戦の間(1918~39年)の経済学で、まさに石橋にとっては同時代です。
この時代は金融や経済が大変動を迎える時で、第一次大戦が始まる時に金本位制が停止されて、戦後どう戻っていくのかが問題になる。その途中で、ドイツではハイパーインフレが起きるし、金本位制に戻るところを失敗するイギリスではデフレが激しくなってしまう。そして1929年、日本が金本位制に戻ることを決めたまさにその年に、世界恐慌、昭和恐慌という大不況がやってくる。そういう激動の時代でした。
『危機の経済政策』はここから始める訳ですが、それは非常に決定的な瞬間で、今のマクロ経済学と呼ばれているものの骨格・土台部分がこの時に出来上がってくる。そして石橋はその骨格――スウェーデンのカール・グスタフ・カッセル、アメリカのアーヴィング・フィッシャー、イギリスのラルフ・ホートリー、あるいはいちばん有名なジョン・メイナード・ケインズというような人たちが唱えたことを、自分なりに咀嚼して行ったということです。
その基本的な発想は、貨幣や金融が経済に非常に大きな影響を及ぼす。だから経済を安定化させるためには、貨幣や金融を安定化させなければいけないということです。彼らがいちばん重視したのは物価の安定化です。ハイパーインフレももちろんダメだし、デフレもいけない。物価をある程度のところで安定させることこそが大事だ。そのためには金融政策が必要で、金融政策によって物価を安定化させる。その金融政策を使う時に非常に重要になってくるのが、どういう国際通貨制度を採るのかです。これが経済の大枠を決めていく。金本位制を採用するのかそうでないのか。金本位制採用の場合でも円と金との交換比率をどうするか、為替レートが非常に重要になってくる。ここから今のマクロ経済学に至る脈々たる流れが出てくる。これまでの流れが結実してさらに発展していく訳です。
……中略……

4、もし小日本主義で進んでいたら?

5、主幹・経営者としての組織力
……中略……

6、金解禁~昭和恐慌と現在の危機の奇妙な符号
さて、ここまで石橋湛山の人となりについてお話をしましたが、「湛山ならば現在の危機に対していかに立ち向かうのか」という本題の方です。
先にもふれましたが、石橋湛山を著名にしたのは、金解禁論争から昭和恐慌、そしてその脱出期という時代での、彼の言論の輝きによってです。その言論についてはすでに多くが語られているので、最小限にします。
第一次大戦勃発(1914~18年)に伴い各国が金輸出を禁止し、日本も17(大正6)年9月に金輸出禁止をする。大戦が終わって、当時の国際通貨制度である金本位制に戻そうというのが金解禁です。その場合、金と円との交換レートを禁止前の「旧平価」で行うか、その後の経済実体に合わせた「新平価」で実施するか(平価切り下げ)が問題となった。これが金解禁論争です。
金解禁とは要するに金の取引を解禁し、輸出入を自由にするということです。当然、平価=政府が定める交換比率いかんで、為替レートが高いか低いかとなる。第一次大戦の後のバブル景気で日本の物価は上がっているから、実態として円は安くなっている。だから旧平価で解禁するためには、日本をデフレにして円を高くしなければいけない。
石橋も最初は、昔の比率でいく旧平価での金解禁に賛成でしたが、やがて新平価解禁論に転換していきます。これには、高橋亀吉が23年にカッセルの購買力平価説を紹介したのが大きいとされており、それで石橋も新平価解禁に納得する。ここから先に、石橋らの言論活動が始まり、基本的には少数派としてずっと異彩を放つ訳です。
一方、現実の歴史としては、30(昭和5)年1月、浜口雄幸首相・井上準之助蔵相ラインで、旧平価での金解禁が実施される。ところがそれがうまくいかない。昭和恐慌(29~32年)が起こったこともありますが、その最中に石橋ら論陣は今度は、禁輸出再禁止を唱える。金本位制は一度停止しなければいけない、もはや金本位制ではうまくいかない、それを捨てるべきだということに変わる。そして31年12月、犬養毅首相・高橋是清蔵相の下で禁輸出再禁止が実施される。
そこで石橋らが主張したのは、その先の政策です。せっかく金本位制を離脱して政策の自由を得たのであるから、今度はさらにデフレを脱却するための政策をとらなければいけない。これがリフレーション政策です。ちなみにリフレーション政策というのは、まさに1930年代の大不況の最中で出てきた言葉で、石橋自身も32年くらいからそういう言葉を使っています。
本日のテーマはまさに、この石橋の時代と現在とをどう関連付けるかです。今の経済危機をどう見るにせよ、まず貨幣的な要因・金融的な要因が重要であることに、疑いを挟む人はいないと思う。まさにこの点が湛山から学ぶべき一番大きな点です。
……中略……

7、修正が必要な大恐慌・大不況に関する誤解
……中略……
これは私の推測ですが、鳩山氏が温めてきた外交構想には、ブレインの1人といわれる寺島実郎・日本総合研究所会長のアイデアが生かされていると思います。寺島さんは第15回の石橋湛山賞の受賞者です。石橋湛山の自由主義・民主主義・国際平和主義の理想は、今や現実政治を動かしつつあるとも言えます。
もちろん、東アジア共同体のような大きな課題が一足飛びに実現するとは思いません。しかし、アジアを代表する日本と中国の首脳が悩みも希望も率直に話し合える関係を築くことは、日中双方の国民にとっても、世界のためにも、極めて大きな利益になると私は確信しています。
私の雑駁なお話は、以上でおしまいです。ありがとうございました。

8、「不景気は罪悪」とした石橋の具体的主張
では、石橋自身が当時どういう提案をしたのかです。1932(昭和7)年3~5月に書いた社説「インフレーションの意味方法及効果」で詳説してます(のち『インフレーションの理論と実際』第16章、『全集』⑧)。そこでは「リフレーション政策」とか「インフレーション政策」、あるいは「統制インフレ政策」という言い方をしていますが、基本的に必要なことは、デフレに陥っている現状からもう一度物価水準を回復することであると。だからといって、ひどいインフレにするという訳ではなくて、スタビリゼーション(物価の安定)、あるいは今までのデフレーションの弊害を克服・是正するのがリフレーションであるとする。
なぜそれが必要なのか、デフレによって「債権債務の大失衡」がもたらした「現在の金融の破綻」の救済であるということです。これはフィッシャーがいう「デット(債務)デフレーション」の話です。つまり借金は名目値なので、100万円を借りてデフレが2%進んでも98万円にはしてくれない。デフレが進むと企業や家計の実質的な負担が増えてしまう。もう一つは生産が停滞し失業が出て「人も設備も無益に休止」している状態の救済であると。そのために通貨の価値が上がり過ぎるのを止める必要がある。
その方法としては、①中央銀行の金利政策、②同じく公開市場操作、そして③政府による財政政策がある。ただ政府による財政政策は、政府事業を直接刺激する意味ではよいかもしれないが、「政府事業が、財界に活を入るるに足るだけの規模に於て、か且つ時期に適して聡明に遂行せらるる場合」は少ない。実際には難しいと。これなど、現代日本の政治家に聞かせたい言葉です。ここで非常に重要なのは、石橋は金融緩和政策がないかぎり持続的なインフレは起きないとしていることです。これこそ湛山が経済学から学んだことを応用です。
さらに石橋は「批判に答える」として、具体的に敷衍している。①「通貨膨張を行って、果して物価は騰貴するか」、金融緩和してもインフレにつながらないじゃないかという話です。どこかの論争を想起させる話ですが、それはこういうことだと。おカネを回していても最初は銀行に溜まっていくだけだろう。だが通貨膨張が「頑強に続けられるならば」、どんな「銀行でも無限に資金を遊ばせておく訳にはいかぬ」、どこかで使い始める瞬間がやってくる。「その効果を発揮するまで、頑強にインフレーションを続くべし」、マネーを出し続ければよいと。これが石橋の答えです。
それから②「物価が上昇しても労働者の実質的購買力は変わらないのではないか」。これは河上肇の批判です。これに対して石橋は、確かに物価が上昇し労賃が物価上昇分しか上がらなければ労働者一人当たりの購買力は変わらない。しかしリフレが実現し物価が上昇しているということは、企業活動の回復により全体のパイが広がって、労働者全体の購買力も上昇しているということだ。その分雇用が増えて失業が減っている。リフレ政策によってこそ、「さもなくば失わねばならぬかもしれぬいのち生命を取り止める」ことができる――そう石橋は主張するのです。
③「インフレ策の結果、第一次大戦後のドイツのようなハイパーインフレが起きないのか」。これは当時の実際経験なので心配する訳ですが、石橋は、ドイツの「戦争という如き外的原因から迫られたそれ(財政インフレ)と異なり、政府又は中央銀行の欲するままに統制し得る」、インフレはコントロールできると。だから「これに何の危険があろう。一たびインフレーションを始めれば、止め度(とめど)がなきに到ろうなどと言う者は、思索全く足らざる者である」とまで、言い切っている訳です。
ただ、マクロ経済政策さえうまく運営すればすべてがうまくいくのか?。今私たちなどが日銀批判をすると、「日本銀行だけを批判するのか?」といわれるが、そうではなくて、日本銀行にもまずいことがありますという主張なのです。それと同じで、マクロ政策以外にも問題は沢山ある訳です。その点で基本的に考えなければならないのは、石橋湛山という人は当時の社会においてデモクラシーを求めた闘士であるということです。大日本帝国憲法の下でデモクラシーを唱えるということは究極の制度改革派です。そのほかにもコーポレート・ガバナンスの必要性を説いたり、このマクロ政策がうまくいった上では、国家百年の計に立って根本的な改革が必要であると言っている。
……中略……

9、危機が政治を変える危険性を危惧
……中略……
最後に「石橋の願い」として、その言葉を紹介しておきます。「真に国を愛す道――言論の自由を作興せよ」(31年11月14日号社説、『全集』⑧)にあるものです。
「如何なる権力にも恐れず、而(しこう)して我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん等と誓いし願破るべからずとせる意気を、記者(石橋)は今日の我国民、就中(なかんずく)世を憂うる学者、評論家、識者の人々に持って貰いたいと願うのである」
これが冒頭で紹介した自分は「有髪(うはつ)の僧」であるということの意味です。これを書いた一カ月後に日本は金本位制を離脱して、経済復活への道をたどっていくことになる訳です。

「自由思想」120号(2010年11月刊)に全文を掲載しています。